端敬王后(タンギョンワンフ)の人生は何だったのか

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10代王・燕山君(ヨンサングン)の暴政は、臣下たちのクーデターで終結した。彼の後を継いだのは異母弟の11代王・中宗(チュンジョン)。自分の意思とは関係なく臣下のみこしに乗って王になった彼は、強引な政策を続ける側近に異論を言えなかった。




臣下に屈した王

中宗には端敬(タンギョン)王后(1487年~1557年)という妻がいた。2人は周囲がうらやむほど仲睦まじい夫婦だったが、臣下たちは2人を別れさせようとした。端敬王后の父が燕山君の側近だったため、後年の復讐を恐れての行動だった。
臣下たちの強要を受け入れてきた中宗だが、この一件だけは認めるわけにいかなかった。中宗は愛する妻を守るために、臣下たちと徹底的に話し合った。しかし、最後には中宗が屈してしまう。中宗の決断は、端敬王后を殺すべきだという過激な発言を抑えるために仕方がないことだった。
端敬王后は王妃から庶民へ格下げされた後、宮中を追い出された。
中宗は彼女が去ると、2人の王妃と9人の側室を迎え、9男11女の子供を授かった。しかし、中宗にとって端敬王后を失った悲しみは大きかった……。
中宗は彼女が恋しくなると、王宮の一番高い場所まで足を運び、彼女の住まいの方向をじっと眺めて気持ちを落ち着かせるようになった。




そのことは次第に噂になり、端敬王后の耳にまで届くようになった。彼女は王宮を追放された自分をいつまでも思ってくれる中宗に深く感動した。そして、中宗が自分の住まいをすぐに見つけられるようにと、裏山の岩の上に宮中でよく着ていた薄紅色のチマ(スカート)を置いた。
そのチマを見るたびに中宗は、引き離された妻への愛情を慰めたのだった。2人のこうした悲恋は「チマ岩の伝説」として今も語り継がれている。この話は『宮廷女官 チャングムの誓い』の中にも出てくる。
また、端敬王后は中宗への愛に応えようと、生涯子供を設けることなく、1人寂しく暮らし、1557年に70歳でこの世を去った。
権力闘争に巻き込まれながらも、最後まで真実の愛を貫いた端敬王后。彼女の生きざまは、21代王・英祖(ヨンジョ)の心を強く打ち、死後200数年が経った後に王妃として復位した。

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