朝鮮王朝三大悪女(張緑水、鄭蘭貞、張禧嬪)はどのように死んだのか

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韓国時代劇によく取り上げられる「朝鮮王朝三大悪女」と言えば、それは張緑水(チャン・ノクス)と鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)と張禧嬪(チャン・ヒビン)のことだ。極端な形で歴史に名を残した彼女たちだが、その最期はとても惨めなものだった。




庶民に憎まれた悪女

張緑水は、10代王・燕山君(ヨンサングン)の側室として知られた女性だ。贅沢三昧な暮らしに明け暮れ、暴君の燕山君と一緒に国家財政を危うくした。
結局、燕山君は1506年にクーデターによって王宮を追われたが、側室だった張緑水も暴君の追放によって命を奪われる結果になった。
彼女はよほど恨みを買っていたのだろう。首をはねられた後に、市中に遺体を放置された。その遺体に向かって人々が石をたくさん投げたので、そこに石塚ができたと言われている。ここまで庶民に憎まれた張緑水。彼女は実に悲しい女性だった。
鄭蘭貞は、11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后の手先となった女性だ。
文定王后の弟が尹元衡(ユン・ウォニョン)で、彼も姉の引き立てによって大出世をしたのだが、その妾となったのが鄭蘭貞であった。
結局は、尹元衡の妻を殺して自分がその後釜に座り、さらには文定王后の意向を受けて数々の悪事を働いた。その中には、12代王・仁宗(インジョン)の毒殺も含まれていると推定されている。




王朝を揺るがす大事件に関与した鄭蘭貞。彼女の運命は、1565年に文定王后が世を去ってから一転した。
強力な後ろ盾を失った尹元衡と鄭蘭貞は、それまでの悪事の数々によって復讐されると恐れ、すぐに王宮から逃げだして、地方でひっそりと暮らした。しかし、追っ手の追及から逃れられないと覚悟した鄭蘭貞は先に自害し、後から尹元衡も自らの命を絶った。
この夫婦は、結局は文定王后がいないと何もできない2人であった。後ろ盾の文定王后が世を去った後、もはや命運が尽きたと言えるだろう。
三番目の張禧嬪は、19代王・粛宗(スクチョン)に寵愛された女性だ。「朝鮮王朝実録」が何度も記したように、絶世の美女だったという。
その美貌によって粛宗に愛されて側室から王妃に昇格したのだが、後にトンイこと淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)の登場によって張禧嬪の運命も変わった。彼女は再び側室に落ちた後、復位した仁顕(イニョン)王后を呪詛(じゅそ)したという嫌疑を受けて1701年に死罪となった。
ただし彼女の場合は、粛宗との間に産んだ子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位しているので、張緑水や鄭蘭貞と比べて、その人生に多少の救いがあると言える。




以上のように、「朝鮮王朝三大悪女」は、斬首、自害、死罪という悲惨な最期になってしまった。
三大悪女とは逆に、朝鮮王朝で最も悪政を行なったと言われている3人の王妃はどうだったのか。
それは、文定王后、貞純(チョンスン)王后、純元(スヌォン)王后のことだ。
この3人は、悪政を行なって王朝を腐敗させておきながら、自分たちは幸せなうちに世を去っている。
なぜ、それが可能だったのか。
王妃として自ら権力を手に入れたからこそ、文定王后と貞純王后と純元王后は、命が終わるまで女帝でいられたのだ。
一方の張緑水と鄭蘭貞と張禧嬪は、絶対的な後ろ盾があってこその悪女であった。その後ろ盾を失った瞬間に、自らの悪運が尽きたのである。
3人の王妃のような「巨悪」は生き残るが、後ろ盾が必要な他人次第の悪女は、最期は惨めな終わり方を強いられるものなのだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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