1623年、光海君(クァンヘグン)はクーデターで廃位になりました。クーデターを成功させて新しい王になった仁祖(インジョ)が廃位の大義名分にしたのは、「兄弟たちを殺した」「多くの土木工事を行なって民衆の負担を大きくした」「中国大陸の明に対して背信行為をして、後金と密通した」「継母である仁穆王后を幽閉した」という4項目でした。
「こじつけ」が多い
大義名分の4項目を具体的に検証してみましょう。
王位継承をめぐって親族を殺したのは、光海君が最初ではありません。3代王・太宗(テジョン)と7代王・世祖(セジョ)も王位争いの渦中で兄弟を何人も殺害しています。それでも、太宗と世祖はなんら罪を問われませんでした。
次に土木工事が多いという件ですが、朝鮮半島は豊臣軍との戦いで国土が荒廃しており、その復興をなしとげる必要がありました。当時は王ですら、満足に住む王宮がなかったほどです。光海君が王宮の再建を急いだのも、王の権威を失墜させないために仕方がなかったのです。
また、クーデター軍は光海君が民衆の負担を増やしたことを問題視していましたが、むしろ光海君は納税制度を改善して土地を持たない人たちの税負担を軽くしています。決して民衆に過剰な負担を強いたとは言えません。
さらに、明に対する背信行為という点も引っかかります。むしろ、光海君は巧みな外交術で国家の危機を回避させたとも言えるからです。
当時、中国大陸では明から後金(後の清)へ勢力が移り変わっていました。確かに、豊臣軍との戦闘時に明は援軍を派遣してくれた恩人でしたが、あまり明に肩入れすると後金ににらまれるのは目に見えていました。光海君は外交上の最善策として、明と後金のどちらが覇者になっても朝鮮王朝が生き残れるようにふるまったのです。
この戦術は功を奏し、光海君が王位にいる間は朝鮮王朝も安泰でした。むしろ、彼が王位を追われたあと、新しい政権は明に気兼ねして後金にさからい、その結果として手痛い侵攻を受けて屈伏しています。それに比べると、光海君の外交術のほうがずっと巧みでした。
以上のように、クーデター軍が挙げた大義名分は「こじつけ」ばかりだったのですが、あえて言えば、継母の仁穆王后を幽閉した件は責められても仕方がありません。「孝」を最高の徳目とみなす儒教を国教にしている朝鮮王朝では、「息子」が「母」を処罰することがあってはならないのです。この点では、クーデター軍の言い分に一理あると言えるでしょう。
光海君を追放して王位に就いた仁祖は、自らの正統性を強調するために、徹底的に光海君を悪者に仕立てあげました。その非難が定着し、以後の朝鮮王朝で光海君は暴君と言われ続けました。
しかし、現代では歴史研究が進み、光海君を「卓越した外交戦術家」と評価する論調が増えました。それにつれて、光海君を暴君とみなす風潮も影を潜めてきました。そして、「名君だった」とも言われるようになりました。
文=康 熙奉(カン ヒボン)