日韓の二千年の歴史23/雨森芳洲と申維翰

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方広寺事件

徳川吉宗の将軍襲職を祝賀する朝鮮通信使が漢陽(ハニャン)を旅立ったのは1719年4月のことだった。
正使は洪致中(ホン・チジュン)。一行の総人数は475人だったが、その中には日本紀行文『海游録』を著した製述官の申維翰(シン・ユハン)がいた。
この申維翰が対馬に立ち寄ったときに出会ったのが雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)である。
雨森芳洲は儒臣として対馬藩に仕えていた人物で、釜山の倭館に長期滞在した経験があって朝鮮語が堪能だった。それだけに、朝鮮通信使が来日したときには対馬藩の役人として使節に同行していた。
その8年前に朝鮮通信使が来日したときには新井白石が独自の改革案を強行しようとして軋轢が生じたが、幕府はそれに懲りて「応接を旧来に戻す」という方針を立てていた。その甲斐があって、1719年10月1日に朝鮮通信使が江戸城で8代将軍・吉宗に謁見したときも万事が順調に推移した。
公式行事を終えた朝鮮通信使は、1719年10月15日に江戸を出発。申維翰も成果を実感して帰路につくことができたのだが、最大の難事はむしろその後に起こってしまった。それは、朝鮮通信使が京都に滞在したときのことだった。




幕府は方広寺で朝鮮通信使を饗応しようとした。しかし、朝鮮通信使がそれを素直に受けるわけにはいかなかった。なぜなら、方広寺は豊臣秀吉が大仏を安置するために創建させた寺であることを知っていたからである。
朝鮮通信使の反発が予測できるのに、なぜ幕府は方広寺で饗応の席を設けようとしたのか。
方広寺のとなりには耳塚があった(鼻塚とも呼ばれる)。この耳塚は、文禄・慶長の役の際に朝鮮半島の人々から裂いた耳や鼻を日本に送って一堂に埋めた場所なのである。そういう場所であると知りながら、あえて幕府は饗応の席として選んだ。日本の武威を強引に示そうという狙いがあったと思われる。
(ページ3に続く)

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