朝鮮通信使は、国書を交換するために来日した外交使節団であると同時に、日朝の文化交流を活発にするための文化使節団としての側面をもっていた。むしろ、文化交流の面で果たした役割のほうが大きいともいえるほどだ。
異国文化に接する機会
朝鮮通信使には儒学者、通訳、医師、画家、楽隊などが同行しており、対馬から江戸を往復する間に、沿途のさまざまな地域で日朝の文化交流が行なわれた。特に、日本の知識人たちは先を争って通信使たちの宿舎を訪ね、漢詩の唱酬に熱中したり、書画の揮毫を請い願ったりした。
また、筆談によって経・史・諸学の問答を交わし、同時に中国と朝鮮の政情や歴史・風俗を詳細に知ることができた。
知識人ばかりではない。朝鮮通信使の一行が行進する姿は、異国情緒にあふれて壮観であり、異国文化に接する機会が少なかった一般庶民の関心を大いにかきたてた。
医師の交流も活発であった。当時、朝鮮の『東医宝鑑』という医学書は日本の医師の必携書となっていた。蘭医学が普及するまで、朝鮮医学は日本にとって良きお手本となっていたのである。
朝鮮通信使に名医を同行させるのが幕府側の要請により慣例となっており、宿泊の先々に医師が訪ねてきて朝鮮の名医に教えを乞うている。お互いに言葉は通じなくても、漢文の筆談によって十分に会話を行なっており、そのときの様子は日本各地に記録として残っている。(ページ2に続く)