それぞれの事情
過剰な接待は、どの藩でも同じように行なわれていた。
このように朝鮮通信使の来聘が、当時の国力に不釣り合いなほど過大な支出を余儀なくされたことは事実であった。
日本が国家をあげて朝鮮通信使を歓迎したのに対し、朝鮮王朝側はどうであったのか。実は、外交の基本である相互往来に関しては歪んだ形態に終始していた。
朝鮮通信使が江戸に何度も来ているのに、幕府からの使節は常に釜山にとどめ置かれて、漢陽(ハニャン/現在のソウル)に入城することを婉曲に断られ続けたのである。
これには、朝鮮王朝側の理由があった。豊臣軍が漢陽に至った経路が、かつて室町期の使節が辿った路と同じであることに懲りて、日本の使節をすべて釜山で接待するようにしたのだ。国内事情を日本側に知られることを極端に恐れていたといえるだろう。その結果、江戸時代に国交が回復しても、日本人が朝鮮半島に入れたのは釜山までだった。相互の使節交換でありながら、実際の接待の仕方には著しい差があったのである。
とはいっても、両国があくまでも形式的に対等外交にこだわったことには変わりがない。その事実は、通信使来日の際に交換される両国の国書が、朝鮮国王と将軍の名の下にまったく対等な格式をもって取り行なわれていたことからも明白である。
結局のところ、日本の事情は朝鮮通信使によって筒抜けになっていたのに、朝鮮の国内はベールに包まれたままであった。こうした情報不足の面が、日本国内の朝鮮理解を妨げ、明治維新時の征韓論といった政策を生み出す土壌の一部となったことも否定できないだろう(第2回に続く)。
文=康 熙奉(カン ヒボン)