失敗に終わった密使派遣
日本は1904年8月に第1次日韓協約を強要。大韓帝国は外交に関して日本と事前に協議することを求められました。
それを大韓帝国が拒むことは不可能でした。
日本は日露戦争を有利に進め、1905年9月に日露講和条約が調印されました。その結果、ロシアは朝鮮半島から完全に追い出されたのです。
振り返ってみれば、日清戦争と日露戦争は日本が朝鮮半島の権益をめぐって清とロシアと争った戦争でした。
その2つに勝利した日本は、もはや自在に朝鮮半島で支配体制を強化することができました。
1905年11月には第2次日韓協約が調印されました。日本は統監府を設置し、大韓帝国は外交権を奪われました。
植民地になるのは時間の問題となりました。あせった高宗は1907年6月にオランダのハーグで開催された万国平和会議に、日本の介入に対する不当性を訴える密使を送りました。
しかし、すでに大韓帝国は外交権を奪われて万国平和会議に出席する権利もなく、密使派遣は失敗に終わります。(ページ3に続く)