第1回 老論派の陰謀
朝鮮王朝で最大の悲劇とも言える「世子の米びつ餓死事件」(1762年)。この事件の当事者は英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)だが、どうしてこんな悲劇が起こったのか。5回にわたって記事を掲載します。
政治改革を進める王
1724年8月30日に朝鮮王朝21代王として英祖が即位した。19代王の粛宗(スクチョン)に愛された淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の息子である彼は30歳になっていた。
英祖は各派閥から公平に人材を登用する政策を進めた。これは蕩平策(タンピョンチェク)と呼ばれるもので、英祖の治世を代表する政策の一つになった。
確かに、蕩平策は多くの人材を生かすうえで効果を発揮した。派閥の枠にとらわれて働く場を得られなかった有能な官僚たちに重職を与えられ、彼らがその職務を全うすることで政治が活性化していった。
自信を深めた英祖は、党争を克服して政治改革を進める意欲を見せた。そういう点では、実に頼もしい王であった。(ページ2に続く)