帰国できない事情
日延がなぜ誕生寺に来ることになったのか。「千葉のなかの朝鮮」(編著/千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会)は、次のように説明している。
「誕生寺に残る『龍潜寺過去帳』によると、日延の安房入国は加藤清正と安房の領主里見義康の関係によっているとあります。つまり、誕生寺を参詣した清正の口添えによって、日延は里見領内の誕生寺に入山したというのです。日延の姉は宇喜多氏の重臣に嫁しているので、これもやはり加藤清正の人脈による婚姻と考えても不自然ではありません」
日延は加藤清正によって日本に連れてこられたのだが、まがりなりにも、ときの朝鮮国王の孫である。それなのに、なぜ朝鮮王朝は、終戦後に日延を帰国させるように日本に働きかけなかったのか。
それは、日延の父の臨海君に深刻な問題があったからかもしれない。
というのは、臨海君の素行の悪さは相変わらずだった。しかも、敵の捕虜になってしまったという屈辱は、臨海君を終始苦しめた。彼は酒浸りになり、宮廷の内外で問題を起こした。
宣祖の後継者を臨海君と争ったのは、二男の光海君(クァンヘグン)である。彼も宣祖の側室から生まれているが、日本が侵攻してきたときには指導者の一人として成果をあげていた。こうした能力が認められて光海君は王の後継者として揺るがない評価を得るようになった。
1608年に宣祖が世を去ったとき、後継者問題に関して中国大陸の明も憂慮を表明した。そして、調査のために明は使者を朝鮮王朝に派遣すると通告してきた。この時点で後継者は光海君にほぼ決まっていた。
ただし、光海君を支持する一派は、臨海君が世継ぎ問題で混乱を起こすことを恐れ、明の使節が来る前に臨海君を配流した。さらに、失意の臨海君は1609年に殺害されてしまう。
こうした出来事によって、日延は朝鮮半島に戻ることができなくなったのではないか。父も政権によって殺されているし、帰国すると自分の身が危なくなるのは明らかだった。以後、彼は日本で僧侶として生きていかざるをえなかったのだ。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)