第4回/雨森芳洲(後編)
朝鮮通信使の制述官であった申維翰(シン・ユハン)と、対馬藩で通訳を担当した雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)。2人が対立する発端は、申維翰が対馬藩主に招待されたことだった。
相手に配慮した応対
申維翰は宴席に臨むにあたって、立場上は対馬藩主と対等であることを主張して、藩主に拝礼することを拒否した。
すると、雨森芳洲は「我々をあなどるものである」と強く抗議。それでも、申維翰は納得せず、対立は深刻になった。
結局、対馬藩主が宴席に欠席することで、それ以上の混乱とならなかったが、両者の間では火種がずっとくすぶっていた。
申維翰は、名分と序列を重んじる朱子学を信奉する朝鮮王朝の官僚らしく、格式について徹底的にこだわっている。しかし、その朱子学的な価値観を外交でも通そうとするのは無理があった。
そのあたりは雨森芳洲も十分に承知していたが、江戸幕府の将軍交代の祝賀に来ている朝鮮通信使を怒らせるわけにもいかない。
雨森芳洲は主張すべきところはきちんと主張しながらも、相手に配慮した応対を続けて、朝鮮通信使側の信頼を得ていった。
そんな雨森芳洲が一度、申維翰に抗議の姿勢を見せたことがある。それは、朝鮮半島で発表される書物を読むと、日本のことを「倭(わ)」と蔑称してひどい書き方をしている、ということについてだった。
これに対して申維翰も苦しい弁明をしている。それは、「倭と蔑称している書物は壬辰の乱(文禄・慶長の役のこと)の後に出たものばかりで、まだ怨みが強烈に残っていたからだ」という言い訳だった。
しかし、これは事実と違う。実際、申維翰が著した『海游録』にも「倭」という言い方がひんぱんに出てきていた。(ページ2に続く)