「東海名區」と書かれた扁額
改札口を出てから国道1号線を西に歩くこと10分、清見寺の山門が見えてきた。その手前には、関所跡がある。
この関所は「清見関(きよみがせき)」と呼ばれ、その関所の鎮護として仏堂が建てられたのが清見寺の始まりと伝えられている。
清見寺の周辺は山が海まで迫っているので自然と要害の地となり、戦乱の際には争奪戦が激しく展開されたという。
その後、寺は江戸時代を通して徳川家に保護され、朝鮮通信使だけでなく、琉球王朝の使節を接待する宿舎としても使われた。
山門の前に立つ。「東海名區」と揮毫された扁額がかかっていたが、それをゆっくり見ていると、列車が轟音を立てて通過して行った。山門の裏手はすぐ東海道本線の線路が走っていて、完全に山門だけが孤立している。
階段を昇って山門をくぐると道が左側に旋回していて、そのまま東海道線をまたぐ陸橋になっている。道なりに進んで、清見寺の正門に至った。
中に入ると、仏殿、方丈、鐘楼が見渡せる。往時の寺の隆盛ぶりを伝えるかのように、重厚な雰囲気が漂う。
大方丈に上がると、壁にかけられた数多くの扁額が目立っている。
扁額のほとんどは、朝鮮通信使が残したものだという。その一つひとつを見ていると、「清見寺が朝鮮通信使にいかに愛されたか」がよくわかった。
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