堕落した百済国王
百済王神社のとなりには木が生い茂る公園があり、その中央は平らな広場になっている。この公園こそ百済寺があった場所なのである。
かつて百済寺は百済の歴代王を日本で祀る寺院だったのだが、結局は消滅という運命をたどった。
百済寺の跡地では、南門、中門、回廊、金堂、東塔、西塔などの遺構が発掘されている。金堂と中門の間に東塔と西塔があり、その礎石が残っていた。
建物は何も残っていないので、その礎石を見ながら、「確かにそこに百済寺があった」と思うしかない。
私が訪ねたときは、曇り空で風が強い日だった。
木の葉を揺らす風の音が絶え間なく聞こえ、カラスが鳴き、なんとも言えない不気味な雰囲気だった。
私は、しばらく公園の中で風の音をしんみり聞きながら、百済寺があった意味について考えた。
7世紀前半、朝鮮半島は高句麗(コグリョ)、百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)の三国が拮抗していたが、その中で、中国大陸の巨大帝国だった唐と連合して力を強めていったのが新羅だった。
660年、新羅・唐の連合軍は、百済を激しく攻めたてた。このときの百済の王は、義慈(ウィジャ)王だった。
この義慈王は、朝鮮半島の最古の歴史書である「三国史記」の中で当初は、「勇敢で決断力があり、親には孝をつくし兄弟にも友愛をもって接した」と最大級の賛辞を受けるほどの人物だった。
しかし、王に即位してからは人が変わったようになり、同じ「三国史記」に「王は宮人とともに淫乱し、享楽をむさぼり、酒を飲んで遊興するのをやめなかった。家臣が強く諫めると王は怒り、その家臣を投獄した。その後は誰も諫める者がいなかった」といったように書かれる有様だった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)