【史実検証】『イニョプの道』の時代設定に迫る

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父と子の確執

 

「王子の乱」に一番衝撃を受けたのが、末の子を可愛がっていた李成桂であり、彼は失意のまま王位を退いた。朝鮮王朝設立からわずか6年のことだった。

政敵たちを排除した芳遠だが、彼は自ら王位に就かずに二男の芳果(バングァ)を次の王に推薦した。

自ら即位して簒奪者として非難されるのを避けるためだ。

こうして、二男の芳果は2代王・定宗(チョンジョン)として即位するが、実質的に権力を握っていたのは芳遠だった。

その2年後の1400年、四男の芳幹(バンガン)が「自分も王になりたい」という欲に駆られ私兵を強化していた。それに気づいた芳遠は、芳幹との戦いを決意する。こうして、2人の王子による争い「第二次王子の乱」が勃発した。戦いは当時最大の武闘派である芳遠の圧勝に終わった。

敵対勢力がなくなったのを感じた芳遠は、定宗を引退させて3代王・太宗(テジョン)として即位する。




太宗はまず、第一次王子の乱によって混乱してしまった民心を落ち着かせることに尽力したが、父である李成桂は太宗を王とは認めなかった。それどころか、王の証である玉璽(ぎょくじ)を持ったまま朝鮮半島北部の咸興(ハムン)にこもってしまう。

李成桂から王と認められたい太宗は、父の下へ何人もの使者を送るが、全員が殺害されて帰らぬ人となった。このことから、韓国では今でも行ったきり戻ってこない人のことを「咸興差使(ハムンチャサ)」というようになった。

しかし、李成桂は自身のわがままのために多くの命を奪ったことを次第に後悔するようになり、自らが信頼していた側近の無学(ムハク)大師の説得を受けて都に戻って太宗に玉璽を渡す。それ以降は政治にかかわらず隠居して、1408年に世を去った……。

 

このように、初期の朝鮮王朝は、建国の祖・李成桂と、その息子である芳遠の関係がよくなかった。その影響は臣下たちの去就にも大きく影響した。

没落と栄達。

当時の朝鮮王朝では臣下たちの勢力も簡単に変貌してしまう混迷の時代だったのだ。こうした知識をもっていれば、『イニョプの道』がより面白くなるはずだ。

 

 

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