百済や高句麗が滅亡したことが大きな理由だが、戦勝国である新羅からも不遇を憤って渡来する人が相次いだ。戦乱が続いた朝鮮半島の人間にとって、日本は救いの新天地だったのである。
大和朝廷は、こうした渡来人を政治的に利用しようとした。その一つが、716年に実施された渡来人の集中移住だった。
関東やその周辺に住んでいた高句麗人1799人を武蔵国に移住させて「高麗郡」を設置したのである。
集中移住させる目的は何だったのか。「未開だった東国を効率よく開発するため」「東国に多かった反朝廷勢力を牽制するため」といった理由が推測されるが、実際のところはよくわからない。当時の関東には百済、高句麗、新羅からの渡来人がそれぞれ住んでいたので、故郷を同じくする人たちを一か所に集めて無用な衝突を避けようとしたのかもしれない。
いずれにしても、高句麗を故国とする1799人が716年に高麗郡に集まった。それが、今の聖天院の周辺だった。
ただし、この人たちはすでに関東やその周辺で生活の基盤を作っていた人たちだと推測される。それらを捨てて移住させられるのだから、「強制」に近かっただろう。様々な問題を抱えたうえでの移住だけに、各人の不満を抑える強力な指導者が必要だったはずだ。そのトップとして初代の高麗郡長官に任命されたのが若光だった。
その人事を見ても、この若光がいかに朝廷から信任を得ていたかがわかる。
彼が来日したのは666年で、すでに50年という長い年月が過ぎている。かなりの老齢であったことだろう。それでも、配下の者たちをよく指揮し、未開の地の開拓に大きな成果をあげたという。
そして、亡くなった若光の菩提寺として、751年に創建されたのが聖天院である。江戸時代には高麗郡の本寺として隆盛を誇り、「院主の格式は諸公に準ずる」と記録されるほどだった。
(文=康 熙奉〔カン ヒボン〕)