サムスンの成長神話(前編)

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半導体と携帯電話で巨額の収益をあげるサムスンは、今や世界の「10大ブランド」に数えられるほどの巨大企業だ。このサムスンが飛躍的に伸びた理由はどこにあったのだろうか。




1200本以上の映画

1953年、韓国から日本に留学してきたその少年は、学校が終わると毎日一目散に映画館に駆け込んだ。
そして、そのまま上映が終わるまで映画館で過ごすことを日課にしていた。学校が休みの日曜日なら、朝から晩まで映画館で過ごした。
そんな日常を過ごすうち、わずかな間に見た映画はゆうに1200本以上にのぼった。まだ小学5年生。当時は日本でも映画が最大の娯楽だったが、これほどの本数を見た人間は、おそらく少年の他には1人もいなかっただろう。
なぜ、少年は映画館に籠もったのか。そこには悲しい事情があった。
実は少年は日本で多くの差別を受け、心が鬱屈していたのだ。
しかし、映画館の暗がりにいるときだけは、誰からも冷たい目で見られなかった。別に、映画が特別好きだったわけではない。でも、映画館の中は自分の身分を隠すのに絶好の場所で居心地がよかった。




少年がわずか11歳で日本にやってきたのは、父が子供の将来に夢をかけていたからだった。事業で成功していた父は後継ぎに日本の留学体験を積ませることで、何かをつかみとってほしいと願っていたのだ。
しかし、少年が日本で身につけたのは屈辱だった。
「いつか日本を追い越してみせる」
そう誓った少年は李健熙(イ・ゴンヒ)と言った。サムスングループの総帥として父から受け継いだ会社を世界的企業に育てた立役者だ。
かつてボブ・ディランは『時代は変わる』という曲の中で「昨日のビリが明日のトップになる」と歌った。
残念ながら多くの場合で「昨日のビリは今日もビリ」という図式が成り立つのが世の中の常なのだが、ごくまれに劇的な主役交代が起こることもある。
それを実現したのがサムスンである。
サムスンが今日の繁栄を築く転機が「経済危機」だった。
それは1997年の末のことだった。アジアを襲った経済危機の影響を韓国がもろに受けて、朝鮮戦争に次ぐ国難にたとえられるほど国家財政は破綻寸前になった。




政府はIMF(国際通貨基金)に緊急融資を要請。OECD(経済協力開発機構)に加盟して「ようやく先進国に仲間入りできた」と自尊心を大いに満足させていた韓国は、一転して途上国なみに頭を下げて借金を頼む羽目となった。
この経済危機を打開するために、金大中(キム・デジュン)政権は産業界の改革を断行した。標的になったのが、採算性の見通しもなく拡大路線を突き進んだ財閥だった。
とにかく、韓国の財閥の多角化戦略は尋常ではなかった。企業の棲み分けを無視してどんな業種にも進出し、ただいたずらにグループの総売り上げを競うというのが、韓国の産業界の悪癖だった。
そこで金大中政権は、各財閥がグループ内で相互に債務を保証しあうような経営体質を改め、財務内容を改善して負債額を徹底的に圧縮するように働きかけた。いわば、採算性のない事業から撤退し、収益率を第一に事業を再編成せよということだ。
並行して政府は、財閥同士で事業を交換しあう「ビッグディール」も進めようとした。これは、財閥間で重複している事業について、お互いの利益になるように交換したらどうかということだ。




たとえば、自動車を例にとると、サムスンは自動車業界に進出したばかりだったが、その事業の権利を韓国第一の自動車メーカーであるヒュンダイに譲渡し、効率よく一元化させようというものだった。
こうした経済危機の克服を通して、韓国の財閥地図は大きく様変わりした。
巨大財閥が次々に解体されていった。一方で、経営の改善によって成果をあげる財閥もあった。その代表例がサムスン電子だった。
(後編に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

サムスンの成長神話(後編)

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