朝鮮王朝で最大の悲劇とも言える「世子の米びつ餓死事件」(1762年)。この事件の当事者は英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)だが、どうしてこんな悲劇が起こったのか。5回にわたって記事を掲載します。
政治改革を進める王
1724年8月30日に朝鮮王朝21代王として英祖が即位した。19代王の粛宗(スクチョン)に愛された淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の息子である彼は30歳になっていた。
英祖は各派閥から公平に人材を登用する政策を進めた。これは蕩平策(タンピョンチェク)と呼ばれるもので、英祖の治世を代表する政策の一つになった。
確かに、蕩平策は多くの人材を生かすうえで効果を発揮した。派閥の枠にとらわれて働く場を得られなかった有能な官僚たちに重職を与えられ、彼らがその職務を全うすることで政治が活性化していった。
自信を深めた英祖は、党争を克服して政治改革を進める意欲を見せた。そういう点では、実に頼もしい王であった。
英祖の正妻は貞聖(チョンソン)王后だったが、2人の間に子供はいなかった。英祖の最初の息子は、側室の靖嬪(チョンビン)・李(イ)氏が産んだ孝章(ヒョジャン/1719年生まれ)だった。
しかし、この長男はわずか9歳で病死してしまった。
その後は側室との間にも息子が生まれず、王の後継者がまったくいないという状況が長く続いた。
英祖もどれほど気にかけていたことだろうか。それだけに、1735年に側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が二男の荘献(チャンホン)を産んだときは、英祖もことのほか喜んだ。すでに41歳になっていたからなおさらだった(荘献は後の思悼世子である。以後は思悼世子と表記する)。
期待にたがわず、思悼世子は幼い頃から聡明だった。1歳で世子(セジャ/王の正式な後継者)に指名された彼は学問に励み、詩作や書道で才能を発揮した。9歳のときに、領議政(ヨンイジョン/総理大臣)まで務めた洪鳳漢(ホン・ボンハン)の娘と結婚した。それが後の恵慶宮(ヘギョングン)である。
世子として甘やかされて育った思悼世子は、自分の才能に溺れすぎるところがあったのかもしれない。10歳のときに老論派(ノロンパ/当時の最大派閥)の政治手法を批判してしまった。この一件によって思悼世子は老論派から恨みを買ってしまった。
英祖の命令によって思悼世子が政治の一部を仕切るようになったのは14歳のときだった。このとき、陰で思悼世子を邪魔したのが老論派の重臣たちである。
こうした批判勢力は思悼世子の悪評を英祖の耳に入れた。息子が心配でならない英祖はその度に思悼世子を呼んで叱責するのだが、それがまた父子の確執を生んでしまった。
ただ、思悼世子自身も反省していなかったわけではない。彼は世子としての自分の立場を自覚し、1757年、22歳のときに承政院(スンジョンウォン/王の秘書室)に反省文を提出した。
その内容は次のようなものだった。
「私は不肖の息子であり、がさつで誠実さが足りません。本来なら子として道理をわきまえなくてはならないのに、行き違いがあまりに多かったようです。それは誰の過ちでしょうか? もちろん、不肖の息子の過ちです。ようやく、自分の至らなさに気がつきました。心から後悔している次第です。今後は、自らを叱りつけて、過ちを正し、気質を変えていこうと思います。もし、このことを実行できずに過去と同じであったならば、それは私の過ちがさらにひどくなるだけです。王朝のすべての臣下たちよ、私の意思をそのまま受け取り、正しい道に導いてください。それが私の願いです」
この反省文は英祖のもとにも届けられた。
彼もよほどうれしかったようで、次のような感想をもらした。
「とても感心なことだ。まるで地上に昇ってきた太陽を見るような思いだ。早く世に知らせ、改心したことを公にせよ」
“地上に昇ってきた太陽を見るような思い”という英祖の言葉に、彼の清々しさがあふれている。息子の改心を喜ぶ様子がよく表れている。
だが、英祖が喜びに浸っていたのはほんの一瞬だった。猜疑心が強すぎる性格のせいなのか、英祖は一転して思悼世子の反省文に心がこもっていないと思い始めた。
「よく読むと、空虚な言葉を並べただけではないか」
思悼世子の反省文に対して英祖はそう疑った。
一度そう思ってしまうと、次々に疑念が沸いてきた。思悼世子に関する過去の悪評も英祖の心に再び甦ってきた。
英祖は息子を呼んで弁明させることにした。
その場で思悼世子は、父が期待するような改心の言葉を述べられなかった。それどころか、しまいに思悼世子は泣き崩れる有様だった。その姿を“情けない”と嘆いた英祖は、よけいに息子を詰問したいという衝動にかられた。
「東宮(トングン/世子のこと)におかれましては、入侍(イプシ/王に謁見すること)せよという命を受ければやはり怖くなって震えてしまいます。それで、わかっていることでもすぐに答えられないようです」
重臣たちはこのように思悼世子をかばったのだが、それにもかかわらず、英祖は息子への厳しい視線を変えなかった。
ついに思悼世子は極度に緊張しすぎて前庭で気絶してしまった。急いで医官が呼ばれ、緊急の診察を受けた。それでも状態が良くなかったので、思悼世子は駕籠(かご)に乗せられて帰宅した。
この出来事は、思悼世子に対する英祖の親心を決定的に悪くした。結局、思悼世子が書いた反省文は逆効果を生んでしまったのである。
(第2回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)