イ・サン(正祖)はどんな国王だったのか

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傑作時代劇『イ・サン』の主人公になった22代王の正祖(チョンジョ)は、1752年に生まれた。父は思悼世子(サドセジャ)で母は恵慶宮(ヘギョングン)であった。史実の正祖はどんな人生を歩んだのだろうか。

写真=韓国MBC『イ・サン』公式サイトより




朝鮮王朝後期の名君

◆1762年、父の思悼世子は祖父の英祖(ヨンジョ)によって米びつに閉じ込められて餓死させられてしまった。正祖が10歳のときのことだ。
◆1776年、24歳のときに正祖は第22代王として即位した。真っ先に行なったのが「仇討ち」だった。父を死に追いやった老論派(ノロンパ)の官僚たちを厳罰に処した。それによって処刑された者もいた。
◆即位してから有能な若手官僚を抜擢して様々な政治改革を行なった。その中心的な場所になったのが奎章閣(キュジャンガク)だった。ここは本来、歴代王の書や公文書などを保管する官庁なのだが、その規模を拡大して統治の拠点にした。
◆父の名誉回復にも力を注いだ。思悼世子は「荘祖(チャンジョ)」という尊称が追加され、墓も格上げとなり、さらには、父の陵を風水思想を取り入れて水原(スウォン/都から南に40キロの場所)に移した。今や世界遺産になっている水原の華城(ファソン)は、父の墓が移ったことにともなって築城されたものだ。




◆正祖は亡き父を追慕するだけでなく、母をとても大切にした。正祖が今も韓国で絶大な尊敬を集めるのは、歴代王の中で特に親孝行だったことも大きい。
◆読書好きだった正祖の治世にふさわしく、幅広い知識にもとづいた実学が栄えた。この場合の実学とは、人々の暮らしに役立つ学問という意味で、儒教的な理念とは一線を画すものである。
◆正祖の在位中には絵画を初めとして芸術分野で優れた作品が多く生まれ、文芸復興の機運が生まれた。
◆1800年5月、正祖は「今後は新しい人材を登用する」という政治改革を発表した。ところが、翌月になって急な発熱で倒れてしまった。
◆病床にあっても、正祖は侍医の診察を拒み、薬を調合する現場を自分の目で確かめている。しかも、わざわざ地方の名医を呼んで診察を受けた。明らかに、正祖は老論派によって毒殺されることを恐れていたのだ。
◆病状が回復せず、正祖は48歳で亡くなった。その後、貞純(チョンスン)王后(英祖の二番目の正室)によって毒殺されたのではないかという疑惑が起こった。正祖の死で最大の権益を得たのが貞純王后だったのである。




◆世子であった正祖の長男(純祖〔スンジョ〕)が後を継いで23代王になったが、まだ10歳にすぎなかった。貞純王后が代理で政治を仕切ったが、彼女は正祖の改革をつぶし、政敵が多いという理由でキリスト教徒の大弾圧を行なった。朝鮮王朝は最悪な時代に入ってしまったのだ。
◆正祖がもっと長生きしていれば……。朝鮮王朝があれほど衰退することはなかったかもしれない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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