中宗(チュンジョン)はどんな国王だったのか

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朝鮮王朝の11代王だった中宗(チュンジョン)は1488年に生まれた。父は9代王・成宗(ソンジョン)で、母は貞顕(チョンヒョン)王后だった。中宗は『宮廷女官 チャングムの誓い』でもおなじみの国王である。

画像=韓国MBC『宮廷女官 チャングムの誓い』公式サイトより




赤いチマ岩の伝説

◆中宗は、王子の時代に晋城大君(チンソンデグン)と呼ばれていた。暴君として有名な燕山君(ヨンサングン)の異母弟であり、本人は「とうてい王になれるわけがない」と思い込んでいた。それだけに、王子としてのんびりした生活を送っていた。ただし、燕山君によくいじめられていたので、その点では苦しい思いをしていた。
◆1506年、あまりにひどい政治を続けていた燕山君が、家臣たちによってクーデターを起こされて王宮を追われた。クーデターを成功させた高官たちは、代わりの王を擁立する必要があった。白羽の矢が立ったのが晋城大君である。しかし、晋城大君は王になることを拒絶した。自信がなかったのである。
◆即位を強硬に拒んだ晋城大君。しかし、最後まで断り続けることができず、彼は11代王・中宗として即位することになった。
◆中宗の正妻は端敬(タンギョン)王后となった。「仲睦まじい夫婦」として王宮でも評判だった。ところが、端敬王后の父が燕山君の側近であり、端敬王后の叔母が燕山君の正室であったことから、高官たちは中宗に王妃と離縁するよう迫った。高官たちの強硬な意見を受け入れてきた中宗だが、妻の離縁だけは絶対に同意するわけにはいかなかった。




◆中宗は愛妻を守るために、何度も高官たちと話し合った。しかし、その願いは届かず、高官たちに従わざるをえなかった。離縁しなければ端敬王后を「殺害すべき」という仰天発言まで出てしまい、中宗は仕方なく受け入れたのである。その結果、端敬王后は庶民に格下げとなり、宮中から追放されてしまった。
◆中宗は端敬王后のことが忘れられなかった。彼は、遠くを見渡せるようにと王宮の一番高い場所へ上がっていき、端敬王后が住んでいる方向を眺めてはため息をもらした。中宗の未練が世間の噂になり、端敬王后の耳にも届いた。彼女は自宅の裏山の岩の上に、よく身に着けていた紅色のチマ(スカート)を広げた。中宗はそのチマをかすかに見て、「元気で暮らしている」と安堵した。この話は「赤いチマ岩の伝説」として、後世でも語り継がれた。
◆中宗の二番目の正妻は章敬(チャンギョン)王后だが、中宗の長男を1515年に出産した直後に亡くなった。ちなみに、この出産のときに貢献したのが長今(チャングム)である。
◆政治的に高官たちに頭が上がらなかった中宗は、趙光祖(チョ・グァンジョ)という儒学に優れた人物を頼り、自分なりの王道政治を築こうとした。しかし、あまりにも趙光祖の理想が高すぎて、中宗にはついていけなかった。その末に、中宗は趙光祖を死罪にせざるを得なかった。




◆中宗は三番目の正妻として文定(ムンジョン)王后を迎えたが、彼女が中宗に代わって裏で権力を持つようになった。しまいには、文定王后は自分が産んだ息子を王にするために、中宗の長男をしきりに排除する動きを見せた。その際に、手先になったのが「朝鮮王朝三大悪女」の1人である鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)だ。
◆中宗は国王として毅然とした態度を取れず、文定王后の悪行を許してしまった。そんな不本意な日々の中で、彼は1544年に世を去った。
◆長男が仁宗(インジョン)として即位したのだが、わずか8カ月で命を落としている。これは、文定王后が自分の産んだ息子を王にするために毒殺したのではないか、と言われている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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