先に触れた三姓人の話はあくまでも神話にすぎないが、耽羅国が実際に良(梁)、高、夫という有力な氏族によって統治されていたことは間違いない。島の政治は三氏鼎立によって成り立っていた。
小国の悲哀
当初は良氏が一番優勢だったようだが、次第に高氏が頭角を現してきて、ほぼ島内の勢力を掌握するようになった。こうして高氏は耽羅国の国王の座を世襲によって受け継ぎ始めた。
ただし、半島のほうで新羅、百済、高句麗の三国が激しく覇権を争う時代になると、耽羅の独立国としての立場は危ういものとなった。小国の悲哀で、日和見的に強いほうになびかざるをえない。
まず、耽羅は新羅に近づいた。高氏16代の高厚は新羅に出向き、臣下として仕えることで国土を安堵されている。その時期は5世紀前半と推定されているが、年代はまだはっきりしていない。
一旦は新羅になびいた耽羅ではあったが、やがて大きな不安の種ができた。軍事力に優る高句麗が南進策を強行した影響で、押し出されるように百済の勢力が朝鮮半島西南部に偏ってきたのである。そこからは済州島が近い。
脅威を感じた耽羅国は、476年に今度は百済に使者を送り、国土安泰のための働きかけをする。
ただし、独立国としての自尊心があったために、朝貢して従属することは拒んだ。これに対し、百済は武力によって耽羅国に圧力をかけてきた。
そこで、やむなく耽羅側は謝罪して礼を尽くすことを誓わざるをえなかった。これにより、耽羅は百済の影響下に置かれることになった。498年のことで、百済では耽羅のことを「耽牟羅」と呼んだ。
以後、百済のご機嫌を取りながら耽羅が生きた時代は160年ほど続いた。しかし、百済は新羅と唐の連合軍に攻め込まれて660年に滅亡した。朝鮮半島の南部は完全に新羅の支配下になったわけで、すかさず耽羅は新羅に服従の意を表している。耽羅なりに必死に生き残りに奔走したのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)