張禧嬪(チャン・ヒビン)はこのように生きた!(後編)

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そんな張禧嬪(チャン・ヒビン)にとってショックな出来事が起こる。1694年9月20日に淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏が息子を産んだのだ。この息子が、後の21代王・英祖(ヨンジョ)になる延礽君(ヨニングン)だ。




淑嬪・崔氏の告発

この当時、王の後継者である世子(セジャ)になっていたのは、張禧嬪が産んだ昀(ユン)だった。
しかし、粛宗(スクチョン)の気持ちがいつ変わるかわからないため、張禧嬪は不安でいっぱいだった。王妃に戻りたい気持ちもあって、仁顕(イニョン)王后にきつく当たった。
そんな張禧嬪の様子に、粛宗は世子を淑嬪・崔氏の子である延礽君に変えるべきかと考えるようになった。
1700年になると、仁顕王后が病床に伏せてしまう。
その後も、彼女の容態は回復の兆しを見せず、1701年8月に34歳で世を去った。
仁顕王后を慕っていた淑嬪・崔氏は、粛宗に、張禧嬪が仁顕王后に対して呪詛(じゅそ)を行なっていたことを伝えた。それを聞いた粛宗は激怒して、ついに張禧嬪を処罰することを決めた。粛宗は「仁顕王后の見舞いに一度も来なかった」「神堂を建てて怪しげな者たちと祈祷を行なっていた」という理由を挙げて、彼女に死罪を言い渡した。




張禧嬪の死罪は、粛宗にとっても苦渋の決断だったことは間違いない。彼女は世子の母親であったため、多くの臣下が死罪に反対した。
それでも粛宗の気持ちは変わらなかった。
仁顕王后が亡くなってから2カ月後、張禧嬪の死罪は、賜死(ササ)によるものだった。賜死とは、王から毒を賜わって行なわれる方法だ。
そのとき、張禧嬪は「最後に息子に会いたい」と願い出た。粛宗は、その願いを受け入れて面会を許した。
その場にいた誰もが感動的な親子の再会を予想していただろう。しかし、張禧嬪は、何を思ったのか息子の下腹部(膀胱〔ぼうこう〕の上あたり)をおもいっきり握り出した。息子はあまりの痛さに失神してしまう。
自分の息子が王になることを望んでいた張禧嬪。その息子は、後に20代王・景宗(キョンジョン)として即位するので、張禧嬪の望みは叶ったことになる。
しかし、景宗には子供ができなかった。張禧嬪が彼の下腹部を強く握ったことが関係したのかどうか。




仁顕王后が亡くなり、張禧嬪も死罪になったため、王妃の座は再び空席となった。このとき、一番王妃になる可能性が高かったのは淑嬪・崔氏だが、彼女は生まれたときの身分が低すぎたために、ずっと側室のままだった。
女官として王宮に入った張禧嬪は、王妃になるという朝鮮王朝で最高の栄誉を手にした。最終的に死罪となってしまった張禧嬪だが、彼女も粛宗によって振り回された被害者の1人と言えるのではないだろうか。

文=康 大地(コウ ダイチ)

張禧嬪(チャン・ヒビン)はこのように生きた!(前編)

張禧嬪(チャン・ヒビン)はこのように生きた!(中編)

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