張禧嬪(チャン・ヒビン)はこのように生きた!(前編)

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朝鮮王朝三大悪女の1人として知られている張禧嬪(チャン・ヒビン)は、1659年に生まれ、女官として王宮に入った。とても美しい女性として評判だった張禧嬪が、19代王・粛宗(スクチョン)に見初められたのは1680年のことである。




明聖王后の意志

粛宗の母親の明聖(ミョンソン)王后は、張禧嬪のことを快く思っていなかった。張禧嬪が何か野心を持っていることに気づいた明聖王后は、張禧嬪を王宮から追い出してしまう。
いくら王とはいっても母親に逆らうことはできなかった粛宗は、明聖王后の意志に従わざるを得なかった。
自分が寵愛する女性を追い出された彼は、当然のように深く悲しんだ。そんな粛宗に同情したのが、二番目の王妃である仁顕(イニョン)王后だ。
お人好しな彼女は、張禧嬪を王宮に呼び戻そうとするが、明聖王后は、「あの女は何か悪巧みをしている」と言って絶対に認めなかった。
しかし、1683年に明聖王后が亡くなったことで、仁顕王后は張禧嬪を王宮へと呼び戻した。
張禧嬪にとって仁顕王后は恩人と言えるべき存在だが、張禧嬪はその恩人に対して感謝するどころか傲慢(ごうまん)に振る舞うようになった。そんな彼女の様子を見た仁顕王后は、自分のしたことを後悔した。




明聖王后の意志が正しかったことを実感した仁顕王后は、粛宗に他の側室に変えるように進言して新たな側室を選んだが、粛宗は寵愛している張禧嬪のもとへ通い続けて、新しい側室のもとへは向かわなかった。
当時、粛宗は王の後継者となる息子がいないことに焦りを感じていた。彼の最初の王妃だった仁敬(インギョン)王后は、娘を3人産んだが19歳という若さで亡くなってしまい、二番目の王妃の仁顕王后は子供を産む気配がまったくなかった。
そのため、粛宗は張禧嬪が息子を産んでくれることに期待していたが、彼女には王の息子を産んで自らが王妃になるという野望があった。
張禧嬪を王宮に戻したことを後悔した仁顕王后。そんな彼女の立場がさらに悪くなる出来事が起きた。1688年に張禧嬪が粛宗の息子の昀(ユン/後の20代王・景宗〔キョンジョン〕)を産んだ。
初めて息子が生まれたことをとても喜んだ粛宗は、昀をすぐに元子(ウォンジャ/王の後継者である世子〔セジャ〕になる第一候補のこと)にしようとした。
しかし、仁顕王后にはまだ子供を産む可能性が高かったこともあり、臣下たちから反対されてしまう。




それでも、粛宗は、強めの口調で今すぐにでも決めたいという気持ちを示した。
反対する者が完全にいなくなったわけではない。その結果、なかなか決まらないことに痺れを切らした粛宗は、「すでに余が決めたことである」と言って、昀を元子にしてしまった。
1689年2月1日、高官の宋時烈(ソン・シヨル)が、元子の決定が早すぎると主張した。
宋時烈は、16代王・仁祖(インジョ)の時代に重要な政策に関わったり、17代王・孝宗(ヒョジョン)に帝王学を教えたりした人物だ。
その彼の言葉に激怒した粛宗は、宋時烈を流罪に処してしまう。
粛宗はあまりに息子を溺愛しすぎていたために、周りの意見を聞き入れようとはしなかった。

文=康 大地(コウ ダイチ)

張禧嬪(チャン・ヒビン)はこのように生きた!(中編)

張禧嬪(チャン・ヒビン)はこのように生きた!(後編)

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