徳川幕府も朝鮮王朝政府も儒教を社会倫理の根幹として受け入れ、社会制度の中に組みこんできた。特に、儒教の中でも名分を重んじる朱子学が中心であった。ただ、世間に浸透する深みには大きな違いがあった。
江戸時代の儒教
徳川幕府は儒教を政治的に利用しようとした。
徳川家康は幕府初期の武断的政策を進める中で、政権安定のために戦国以来殺伐とした人心を転換していく必要を痛感していた。そうした教学振興も、儒教を官学に採用した目的の一つであった。
もちろん、それだけが理由ではない。家康は儒教を利用して江戸幕府の正統性をはかろうと腐心した。
また、身分制度(士農工商)の確立に、儒教を巧みに取り込んだ。儒教は格式や序列を非常に重く見て何かと都合が良かったからである。
儒教が幕府の官学に採用されるうえで大きな役割を果たしたのが藤原惺窩(せいか)である。家康は藤原惺窩を通して儒教の真髄を学んだし、藤原惺窩の推薦によって林羅山が幕府の政治顧問ともなっている。
その藤原惺窩に多大な影響を与えたのは、朝鮮王朝の儒者であった姜沆(カン・ハン)である。彼は、文禄・慶長の役のときに捕虜となって日本に連れてこられ、二年ほど伏見に軟禁されていた。
このとき、藤原惺窩は姜沆に盛んに接触して、朝鮮王朝の儒教体制の状況把握に努めた。その度に藤原惺窩は、「実に残念です。私が、大唐に生まれることができず、また、生を朝鮮に得ることができず、日本のこのような時代に生まれ合わせたとは!」と嘆いた。藤原惺窩を通して姜沆の思想は日本の儒教発展にも生かされている。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)