日韓の二千年の歴史27/日韓併合

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国号を「大韓帝国」に変更

日清戦争を有利に進めた日本は、1895年4月に清との間で日清講和条約(下関条約)を結び、莫大な利権を手中に収めた。
とりわけ大きかったのが、清の勢力を完全に朝鮮半島から追い出したことだ。これで日本の朝鮮半島支配に拍車がかかった。
危機感を強めた朝鮮王朝は、ロシアに接近した。とりわけ、明成(ミョンソン)皇后は日本に抵抗する姿勢を鮮明にした。
日本は強硬手段に出て、1895年10月に王宮に乱入した一派が明成皇后を暗殺した。「国母」とも称される皇后が外国勢力に惨殺されたのだ。
明成皇后亡きあと、朝鮮王朝には親日政権が誕生した。しかし、1896年2月に高宗(コジョン)はひそかに王宮を脱出してロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを次々に処罰した。以後、朝鮮王朝はロシア寄りの政治姿勢を鮮明にした。
冬でも海面が凍結しない港がほしかったロシア。高宗を懐に引き入れたのは願ってもないことであった。




高宗がようやくロシア公使館から王宮に戻ったのは1年後だった。彼は1897年10月に国号を「大韓帝国」と改めて初代皇帝の座に就いた。
それ以前、朝鮮王朝は中国に気兼ねして自ら皇帝と称することはせず、格が1つ下がる形の「王」を自称していた。しかし、日清戦争において日本が勝利したことで、清は朝鮮半島で影響力を失い、朝鮮王朝は独立の証として「帝国」を名乗るようになった。
翌年、興宣大院君が世を去った。高宗を取り込むようにして主導権を争っていた明成皇后と興宣大院君が相次いで亡くなり、朝鮮王朝の命運も尽きる寸前となった。
(ページ3に続く)

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