江華島事件
――現実的に、明治政府は富国強兵路線を歩んでいきます。
康熙奉「吉田松陰の言葉どおり、日本は朝鮮半島での権益を狙い始めます。つまり、欧米列強が日本に対して行なった『武力による威嚇』という手法を、今度は日本がアジア諸国に対して行なおうとしたのです」
――明治政府はどんな手段で朝鮮半島に介入したのですか。
康熙奉「先兵のように動いたのが軍艦の雲揚号でした。この雲揚号が1875年9月に、朝鮮王朝の国防の拠点とも言える江華島(カンファド)の沖で挑発的な行動を取りました。朝鮮王朝側も応戦し、局地的な軍事衝突が起きました。これが江華島事件です」
――当時の朝鮮王朝の政治体制はどのようになっていましたか。
康熙奉「26代王の高宗(コジョン)が統治していました。しかし、この王には自ら政治を仕切る才覚が欠けていて、実質的には父の興宣(フンソン)大院君と妻の閔氏(ミンシ/後の明成〔ミョンソン〕皇后)の間で激しい主導権争いが起こっていました。興宣大院君は攘夷派で閔氏は開国派でした。そして、江華島事件が起こったときは閔氏が実質的に政治の主導権を握っていました」
――両国の力関係はどのようになっていましたか。
康熙奉「日本の武力は、朝鮮王朝にとって脅威でした。ゆえに、朝鮮王朝は強く開国を迫る日本の圧力に抗うことができなかったのです」
(次回に続く)