朝鮮通信使は、徳川幕府と朝鮮王朝の善隣友好関係を象徴する使節であり、江戸時代を通じて合計12回にわたって来日している。そのうちの10回は江戸に入府して、盛大に国書の交換が行なわれた。その儀式は幕府にとって「最高の格式」で取り行なわれており、幕府はことのほか朝鮮通信使に気を遣い、最大級の厚遇でもてなしている。
朝鮮通信使が始まる経緯
江戸時代の外交というと、とかく「鎖国」ばかりが強調される。事実、徳川幕府は日本人の海外渡航を禁止し、貿易面でも長崎と対馬において細々とした制限貿易が行なわれただけであった。
しかし、表門は閉ざしていても、通用口は開けていたのである。その通用口から度々訪問してきたのが朝鮮通信使であった。
第1回目は1607年に来日している。このときは、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって険悪となった両国関係の修復のために訪れた。
そもそも秀吉以前の室町政権下にあって、日朝関係はおおむね平和的な関係が築かれていた。朝鮮国王は室町将軍からの使節を「日本国王使」として迎えており、その回礼使(または報聘使)を送って答礼している。
また、室町将軍の継承を慶賀する通信使が、何度か朝鮮から派遣され、親善を深めて相互不可侵の約束を確認し合っていた。もっとも、無事に京都に辿り着くことができたのは15世紀前半の3回だけで、対馬海峡での遭難が度重なって、ついには中断に追いこまれている。
その後、日本と朝鮮王朝の友好関係をいきなり破ったのが豊臣秀吉であり、彼が朝鮮半島にもたらした惨禍は甚大であった。秀吉の死後に天下を取った徳川家康は、最悪となった日朝関係の修復にいち早く意欲を見せた。何よりも国内の治安を安定させることが急務となっており、対外政策で問題を起こしたくなかったのが大きな理由だ。
都合が良いことに、家康は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に一兵たりとも派兵していなかった。しかも、朝鮮王朝にとっては、家康は不倶戴天の豊臣家から天下を奪った功労者であり、戦後に帰国した捕虜たちの話によっても、家康は信頼に足る人物との感触を朝鮮王朝側は得ていたのである。
こうして日朝の間に再び交流が始まった。(ページ2続く)