先に「韓国はなぜ日本の植民地になったのか」という記事を前編・中編・後編の3回に分けて掲載しました。今度はそれを〔総集編〕として1回にまとめ、改めて掲載します。「19世紀の半ばから朝鮮半島がどのように日本の介入を受けたのか」ということを時系列に沿って説明しています。
江華島事件
1607年、徳川幕府と朝鮮王朝の間で善隣友好関係が始まり、以後、江戸時代に朝鮮通信使が12回来日して両国は良好な外交を維持しました。
しかし、19世紀の半ば、雄藩の跋扈(ばっこ)と欧米列強の外圧で徳川幕府の衰退が著しくなりました。一方の朝鮮王朝も、凶作が続いていたにもかかわらず国王の外戚が政治を牛耳り、国内が混乱するばかりでした。
そんな状況の中で、先に倒れたのが徳川幕府でした。1867年10月、15代将軍の徳川慶喜は大政を朝廷に奉還しました。264年も続いた徳川幕府が終わったのです。
翌年早々に戊辰戦争が起こり、日本国内が内乱状態になりましたが、その年の秋には旧幕府軍がほぼ一掃されました。
新しく誕生した明治政府は、1868年10月に明治天皇の国書を朝鮮王朝に渡しましたが、その文面に対して朝鮮王朝が「礼を失している」と激怒し、国書の交換を拒否しました。
もともと、善隣関係を維持した徳川幕府を倒した明治政府に対して、朝鮮王朝は良い感情を持っていませんでした。そこに国書問題も起こり、朝鮮王朝と明治政府は断交状態に陥りました。
当時の明治政府は、幕末に欧米列強と結んだ不平等条約の数々に困惑していました。それらは、武力の威嚇に怯えた徳川幕府が不本意ながら強制された条約ばかりでした。
しかし、富国強兵路線を歩んだ日本は、ついに朝鮮半島での権益を狙い始めます。つまり、欧米列強が日本に対して行なった「武力による威嚇」という手法を、今度は日本がアジア諸国に対して行なおうとしたのです。
先兵のように動いたのが軍艦の雲揚号でした。
この雲揚号が1875年9月に、朝鮮王朝の国防の拠点とも言える江華島(カンファド)の沖で挑発的な行動を取りました。朝鮮王朝側も応戦し、局地的な軍事衝突が起きました。これが江華島事件です。(ページ2に続く)