実家の名誉を守るために生きた
王の母となった恵慶宮が妙なのは、自分の夫が策略で亡くなっているにもかかわらず、徹底的に自分の実家を守ろうとしたところだ。彼女は『恨中録(ハンジュンノク)』(『閑中録』と表記される場合もある)という私小説を書くが、その中で「自分の夫は精神的に異常で奇行が多かった」「父や叔父は悪くない」ということを徹底的に書いている。
実家を守るためとはいえ、不遇の最期を遂げた夫に対してそこまで書くか、というところだ。彼女は後半生を実家の名誉を守るために捧げた。
恵慶宮は、息子の正祖が1800年に48歳で亡くなったあとも長生きした。王は孫の純祖(スンジョ)がなっていたが、この純祖の摂政をしたのが貞純王后である。恵慶宮からすれば貞純王后は形のうえで母になるが、恵慶宮は1735年の生まれで、貞純王后は1745年の生まれだ。恵慶宮のほうが10歳も年上である。
これは、最初の正室を亡くして還暦を過ぎていた英祖が10代の娘を二番目の正室にしたからだ。
恵慶宮の心境はどんなに複雑だったことだろうか。そんな彼女は80歳まで長生きして、王宮の生き証人になった。
それだけ、実家の名誉を守る期間が長かったということだ。
荘献は正祖が即位したあとに王に追尊されて「荘祖(チャン)(ジョ)」という尊号を贈られている。夫が死後に王となったので、恵慶宮も「献敬(ホンギョン)王后」という尊号を受けた。王妃の一人に列せられたのだ。
王妃の中で、恵慶宮より長生きしたのは6代王・端宗(タンジョン)の正室だった定順(チョンスン)王后だけ。彼女は81歳まで生きた。
定順王后と恵慶宮。ともに夫が若いときに悲劇的な最期を遂げている。そんな2人の妻が、結局は王妃の中で一番長く生きたのである。
文=「ロコレ」編集部