悪評がさらにひどくなる
最終的に臨海君は解放されたが、敵の捕虜になったというトラウマから、彼は酒に溺れるようになった。たびたび暴力沙汰も起こし、自分の評価を高めるどころか、逆に悪評がさらにひどくなってしまった。
これでは、世子の座を弟の光海君から奪うのは無理だった。
しかし、朝鮮王朝に影響力を持つ明(中国の大国)は、「長男を世子にしないのはおかしい」という理屈をつけて、光海君の世子決定をなかなか認めなかった。
1608年、宣祖が世を去って光海君が15代王になった。
明は使節を派遣して朝鮮王朝の現状を確認しようとした。
「臨海君が騒動を起こしたら困る」
そう考えた光海君の一派は、臨海君を無理に流罪にしてしまい、翌年に殺害した。
こうした骨肉の争いは、王位継承の際に何度も起こっているが、光海君に弁解の余地はないかもしれない。
文=康 熙奉(カン ヒボン)