復讐を恐れた世祖
1457年、自分に反抗する者が次々と現れる原因を「端宗が生きているからだ」と思った世祖は、甥の端宗を流罪にしたうえで死罪に処した。弟の死の知らせを受けた敬恵王女の悲しみはあまりにも深かった。
しかし、敬恵王女のお腹には新しい命が宿っていたため、ずっと悲しんでいるわけにはいかなかった。彼女は「どんな辛い出来事が起きようとも、生き延びなければいけない」と思った。
敬恵王女の妊娠を警戒していた世祖は、復讐を恐れてこんな命令を出した。
「もし生まれてきた子供が男の子だったらすぐに殺せ」
それを知った正室の貞熹(チョンヒ)王后は、文宗の血筋を途絶えさせたくないという思いから、内官(ネグァン/王や王妃の身の回りの世話をする官吏のこと)を呼んで、「男の子が産まれたら私のところへ連れてきなさい」と違う命令を出した。
敬恵王女が産んだ子供は男の子だった。彼女は世祖が「男なら殺せ」、貞熹王后が「男なら私のもとへ連れてきてほしい」と言っていたと内官から伝えられた。本当なら自分の手で育てたかったはずだが、敬恵王女は「我が子の命を守らなければならない」と思い、息子を貞熹王后に預けた。
そんな辛い経験をした敬恵王女をさらなる悲劇が襲う。外部との接触を禁じられていた夫の鄭悰が、世祖に対抗する勢力と接触していたことが明らかになり、一番残酷な方法で処刑されてしまった。それは、頭、胴体、手足を切断する方法で、陵遲處斬(ヌンチチョチャム)の刑と呼ばれている。
その処刑法で死罪になった男の妻は奴婢になる決まりがあり、敬恵王女は身分を最下層の奴婢にまで落とされてしまう。
「恥をさらすくらいなら」と自決することを考えた敬恵王女だが、彼女は再びお腹に子供を宿していて、その子を守るために生きる道を選ばざるを得なかった。
敬恵王女は奴婢になっても決して自尊心を失わず、こき使われたときは「私は王の娘である」と言い放ったのである。そして、やがて彼女は娘を産んだ。(ページ4に続く)
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