第15回/日延(後編)
26歳のときに誕生寺の貫主となった日延。その功績は大きかった。祖師堂を建立したことでも知られており、誕生寺の宝物館に行くと、今でも祖師堂を建立したときに日延が書いた棟札(むねふだ)が残っている。日付は、寛永5年(1628年)8月吉日。その棟札には、祖師堂の大きさや宮大工の名前が記されている。日延にとっては、よほど思い出深きことであっただろう。
日蓮宗の内紛
やがて日延は日蓮宗内の対立に巻き込まれる。江戸時代の初期、日蓮宗では不受不施派と受不施派の争いがずっと続いていた。1630年2月21日には幕府の重臣たちが、両派の論争を聴取している。
そもそも、不受不施派と受不施派とは何か。
この場合の不受とは、他の宗派からの布施供養を拒否することであり、不施とは日蓮宗が他の寺や僧に布施供養をしてはならないということである。
日蓮宗では、他宗は邪教と見なしており、その邪教から布施供養を受けてはならないという決まりがあった。
この不受不施の宗制は、長く日蓮宗で守られていたのだが、1595年に秀吉が方広寺で大仏供養をしたときに問題になった。日蓮宗の僧侶たちは供養を命じられたが、宗制を守ってそれに応じなかったのである。
その一方で、日蓮宗の中には権力者の意に沿って供養に応じた人たちもいた。それが受不施派であり、反対の立場の不受不施派との対立は深刻になっていった。
江戸時代になり、2代将軍秀忠の正室が亡くなったときに受不施派が供養したため、不受不施派がこれを非難。逆に、受不施派が幕府に対して訴えを起こすに至った。こうして、1630年2月21日に幕府の重臣たちが列席するなかで、不受不施派と受不施派の対論が行なわれたのである。(ページ2に続く)