急務だった東国の開発
日本に留まっていた高句麗の外交使節は、母国が滅んで帰るところがなくなった。朝廷も気の毒に思い、日本で丁重に扱った。そうした待遇を受けた1人が、高句麗の王族の若光(じゃっこう)である。
彼はとても優秀な若者だった。朝廷内で重用されて、大いに出世した。
703年に従五位下の官位を受け、「王(こしき)」の姓(かばね)も賜った。
これは、大変な名誉であった。というのは、「王」の姓は外国の王族出身者に授けられるものだからである。若光は高句麗の王族の一人として、朝廷内でも重職を担った。
当時、朝廷が重視していたのが東国の開発だった。
その頃は関東ですら未開の僻地。すみやかに開発に着手する必要性を朝廷は痛切に感じていた。
そのときに指名されたのが若光だった。彼は、高句麗滅亡後に難民として日本にやってきた人々とその子孫を率いて、東国に向かった。(ページ3に続く)