仁宗毒殺疑惑
1545年、仁宗は、文定王后から祭祀(チェサ)の後に自分のところに来るように言われる。それに応じた彼を、体調のことを心配した臣下たちが止めようとするが、仁宗は息子としてどうしても行かなければならないと思っていた。
祭祀が終わると仁宗は、文定王后のもとを訪ねた。いつもは冷たく接してきた彼女は、この日だけは上機嫌だった。文定王后に餅を勧められた仁宗は、それを喜んで食べた。それからしばらくして、彼の病状が悪化した。もともと体調が悪かったが、さらに下痢や高熱を発症するようになったのだ。そのあまりの苦しさに仁宗は気を失ってしまう。
一刻を争う容態となった王を、医官たちは静かな場所へと移した。そのおかげもあって、仁宗は意識を取り戻して、医官たちは安堵(あんど)の表情を浮かべた。
しかし、文定王后が突然、自分の娘である懿恵(ウィヘ)王女の家で、王の容態を見守りたいと言い出したのだ。
これには重臣たちから多くの反対意見が出た。どんな理由があろうとも、王妃が王宮の外に出ることはできないからだ。もちろん、文定王后も例外ではない。しかも、仁宗が危険状態だというのに外出しようとするなど、絶対にありえないことなのだ。
それでも、文定王后は簡単には引き下がらない。彼女が何度も外出したいと言ったことにより、王宮は大変な混乱となった。
1545年7月、仁宗は在位わずか8カ月で世を去った。彼には後継ぎとなる息子がいなかったため、文定王后の息子の慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。当時まだ幼かった彼に代わって母親の文定王后が代理で政治を行ない、彼女は権力を思うままにした。
その後、仁宗の葬儀が行なわれた。本来なら王の葬儀なのだから、立派に行なうのが普通なのだが、文定王后は彼の葬儀を王のものとは思えないほど冷遇した。その理由として文定王后は、1年も王の座にいなかったから慣例通りに行なうわけにはいかないと言った。
親孝行のためなら自分の命まで捨てる覚悟を示した仁宗。しかし、そんな彼の思いは、最後まで文定王后に届くことはなかった。
文=康 大地【コウ ダイチ】
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