康熙奉講演録3「衝撃事実!イ・サンはどのような最期を迎えたのか後編」

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一番大きな不運

 

正祖の病床のまわりで側近たちがうろたえている中、満を持して現れたのが貞純王后でした。それまで彼女は陰に隠れていましたが、正祖が意識を失ってから急に姿を見せたのです。

そこには、どんな意図があったのでしょうか。

貞純王后は正祖の側近たちに対して次のように命令しました。

「ご病状が先王(英祖のこと)のときと似ている。先王は回復されたので、当時の煎じ薬を調べ、良い薬をさしあげるようにせよ」

それでも、側近たちの反応は鈍かったのです。貞純王后は高官から「もはや話もなさらない状態です」と正祖の病状を伝えられると、「先王も、昏睡状態から一夜で回復したことがある」と声を荒らげました。

しまいに貞純王后は「私が薬を差し上げてみるから、みなの者はしばらく下がっておれ」と厳命しました。ここまではっきり言われると、重臣たちも下がるしかありません。誰もが正祖の病床から離れ、部屋の外で待機しました。

この時点で、正祖のそばにいたのは貞純王后だけです。彼女は祖母にあたるので、正祖の看病をするのは不自然ではありません。しかし、それは貞純王后が正祖の味方である場合にかぎります。




宮中では、2人の間に確執があることを多くの人が知っていました。それだけに、正祖の側近たちも気が気でなかったのです。部屋の外から神経を集中させて貞純王后の動向をうかがっていましたが、突然、慟哭する声が聞こえてきました。声の主は明らかに貞純王后でした。

驚いた側近たちは、あわてて部屋の中に駆け込みました。すぐに侍医による診察が行なわれたのですが、すでに正祖は息をしていませんでした。政治改革に情熱を傾けてきた名君は48歳で世を去ったのです。

亡くなったことが確認された瞬間、李時秀が貞純王后に対して大きな声を出しました。「どうしてこのように感情のまま行動されたのですか。国の礼法はとても厳正なものですから、すぐにお帰りくださいませ」

李時秀が憤慨したのは、主君の臨終に立ち会えなかったことが無念だったからです。その責任の一端が貞純王后にあるのは明らかでした。彼女が臣下の者たちを部屋から下がらせていなければ……正祖の臨終の言葉を聞けたかもしれないのです。

けれど、現実は冷徹でした。もし正祖が最後に何かを言ったとしても、それを聞くことができたのは貞純王后だけでした。彼女に都合が悪いことなら、握りつぶされるおそれもありました。

いずれにしても、正祖の最期をみとったのは、あろうことか最大の政敵である貞純王后ただ1人です。もっと単刀直入に言えば、貞純王后には正祖の死期を早める細工すら可能でした。

一番望んでいなかった人にみとられたというのが、正祖にとって一番大きな不運でありました。

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