康熙奉講演録2「衝撃事実!イ・サンはどのような最期を迎えたのか前編」

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非業の死を遂げた父

22代王・正祖(チョンジョ)は、1752年に生まれました。父は、21代王・英祖(ヨンジョ)の息子だった荘献(チャンホン)です。

正祖が生まれる直前、荘献は神龍が宝石を抱いて寝室に入ってくる夢を見ました。吉兆だと思った彼は、目覚めた後に夢で見た出来事を自ら絵に描いて宮中の壁に貼っておきました。すると、後継ぎとなる男子を授かったのです。生まれてきた正祖の泣き声は、まるで大きな鐘が鳴るように宮中に響きわたりました。

「頼もしい鳴き声だ」

そう感心する人が多かったのです。

特に喜んだのが祖父の英祖でした。

「この子は本当に余に似ている。この子を得たからには、朝廷はなんの心配もいらなくなった」




英祖はそう言って、生まれたばかりの孫を褒めたたえました。

スクスクと聡明に育った正祖でしたが、10歳のときに悲劇に見舞われました。父の荘献が米びつの中で餓死したのです。

むごたらしい事件が起きたのは1762年でしたが、背景には深刻な派閥争いがありました。というのは、党争の渦中で荘献は陰謀に巻き込まれ、当時の主流派閥だった老論(ノロン)派によって素行の悪さを強調されすぎてしまったのです。結局、荘献の父である英祖は激怒し、荘献を米びつに閉じ込めるという愚挙をおかしました。

後に英祖は荘献の死を悼んで「思悼(サド)世子」という尊号を贈りますが、それは後の祭りでした。失った息子はかえってこないのです。

失意の英祖は、孫である正祖をせめて守り抜こうと決意し、次代の王としてりっぱに育てました。そして、英祖は1776年3月5日に82歳で世を去りました。

そのとき、正祖は悲嘆のあまり何も喉を通らず、泣いてばかりいました。よほど祖父の死がショックだったのでしょう。しかし、いつまでも泣いているわけにはいきません。彼には王朝を守り抜く使命がありました。

1776年3月10日、正祖は慶熙宮(キョンヒグン)で即位して朝鮮王朝の22代王にな

ります。即位後の第一声が正史の「朝鮮王朝実録」に残っています。それによると、正祖は堂々とこう発言しました。

「余は思悼世子の息子である。先王(英祖)が朝廷を守るために孝章(ヒョジャン)世子を受け継ぐように余に命じていたのである」

この言葉を聞いて、老論派の重臣たちは震え上がってしまいました。それはなぜなのでしょうか。

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