朝鮮王朝を苦しめた「後金」とは何か【その後】中国を支配する「清」になった

歴史重要人物
(写真はイメージです)
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ナムグン・ミンが主演した傑作時代劇『恋人~あの日聞いた花の咲く音~』にも盛んに登場する「後金(こうきん)」。この国の成り立ちから、朝鮮半島や中国大陸を巻き込んで覇権を握るまでの激動の歴史を詳しく見てみよう。

現在の中国東北部は、かつて満州と呼ばれていた。古くからこの極寒で広大な地域に定住し、狩猟や採集、さらには農耕や高麗人参・毛皮などの交易を営みながら生活していた民族が「女真(じょしん)」である。この女真族は古代から様々な国家を作ってきた。そういう長く複雑な歴史の中で、16世紀末に独自の軍事・社会組織を整えて挙兵し、分裂して争い合っていた女真族を強力なリーダーシップと武力で一つにまとめあげた傑物がヌルハチである。

【歴史人物紹介:ヌルハチ】 女真族建州部の部将から身を起こし、諸部族を統一して後金を建国した初代皇帝(太祖)。類まれな軍事的才能と政治的カリスマ性を併せ持ち、「八旗」と呼ばれる強力な軍事・行政組織を創設した。明の分断工作を跳ね除け、満州の覇者となった不世出の英雄である。

【キーワード解説:八旗(はっき)制度】 ヌルハチが創設した女真族独自の社会・軍事編成。部族民を八つの旗(軍団)に分け、平時は農耕や狩猟に従事させ、戦時には強力な騎兵部隊として動員する兵農一致のシステム。この強固な組織力こそが、後の清朝による中国支配の根幹となった。

ヌルハチは1616年に建国を宣言し、自ら初代皇帝の座に就いた。すでに満州には、12世紀から13世紀にかけて同じ女真族が作った「金」という巨大な国が存在していた歴史があった。そのため、ヌルハチが新たに建国したこの国は、かつての強大な王朝の復興という願いと、それを明確に区別する意味合いを込めて「後金」と称されたのである。

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 明との激突と光海君の中立外交

後金の急激な台頭に対し、最も激しい脅威を感じたのが、かつての栄華を失い国力が著しく衰退していた中国王朝の「明」であった。1619年、明はヌルハチの勢力を早期に討伐するために大軍を差し向けるが、歴史的な決戦において大敗を喫してしまった。

【キーワード解説:サルフの戦い】 1619年、明・朝鮮王朝の連合軍約10万と、ヌルハチ率いる後金軍約5万が激突した戦い。後金軍の圧倒的な機動力と各個撃破の戦術により、数の上で勝っていた明軍は壊滅した。これにより東アジアの軍事的な力関係が完全に逆転することとなる。

当時、隣国の朝鮮王朝は第15代王・光海君(クァンヘグン)の統治時代であった。光海君は、建国以来の宗主国とも言える明から盛んに「後金討伐のための援軍」を要請された。

【歴史人物紹介:光海君(クァンヘグン)】 豊臣秀吉の軍勢が攻め込んだ「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)」において、逃亡した父王に代わって前線で活躍した。即位後は戦乱で疲弊した国家の再建に尽力し、大国間の争いに巻き込まれないよう冷徹な中立外交を展開した実利主義の君主である。

儒教的な大義名分(君臣の義)からすれば明への出兵は避けられなかったが、光海君は後金の強大な軍事力と報復を恐れた。そこで軍を派遣しつつも、現場の将軍に密かに「戦局を見極めて、無用な犠牲を出さずに降伏せよ」と命じたのである。明の顔を立てながらも、後金を過度に刺激しない巧みな中立外交に徹した。結果的に、この現実的で冷徹な判断が朝鮮王朝を無用な戦火から守り、国家の安泰につながった。朝鮮王朝の外交はここまでは見事な成果を発揮していたと言えるのである。

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 クーデターと無謀な「親明排金」

朝鮮王朝の平和な状況は急転する。1623年に光海君は、彼の実利外交を「明への恩義(再造の恩)に対する裏切り」と激しく批判する西人派などの保守勢力のクーデターによって、王宮を追われてしまった。代わって、第16代王・仁祖(インジョ)が新たに即位した。

【歴史人物紹介:仁祖(インジョ)】 武力クーデター(仁祖反正)によって王位に就いた第16代国王。儒教的イデオロギーに縛られ、非現実的な名分論に固執した。その極端に偏狭な外交政策が二度の戦乱を招き、結果的に国家と民衆に未曾有の災厄をもたらすこととなった。

仁祖は後金を野蛮な「蛮族」と激しく蔑み、すでに衰退しつつある明に再び深く肩入れする「親明排金(明と親しみ、後金を排斥する)」の政策を取った。

この露骨な敵対姿勢に怒った後金は、1627年に大軍を率いて朝鮮半島の国境を越え、怒涛の勢いで攻め込んできた。朝鮮王朝の軍隊は次々と撃破され、国家はまたたく間に窮地に立たされた。やむをえず、仁祖は朝廷を都の漢陽(ハニャン)から、海に囲まれて防御に有利な江華島(カンファド)へと急いで移さなければならない事態になってしまった。歴史的には、この衝撃的な出来事は「丁卯胡乱」と呼ばれる。

このとき、朝鮮王朝は多大な犠牲を払いながらも、「後金と兄弟の関係を保つ」という屈辱的な条件を飲むことで、なんとか辛うじて和睦に持ち込むことができた。

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 ホンタイジの即位と「清」の誕生

仁祖はその後も和睦の約束を反故にし、後金への敵対的な態度を改めようとはしなかった。光海君の時代と比べて、世界情勢の激変を読む力が決定的に欠如しており、その外交政策があまりに稚拙で現実離れしていたのである。

1636年5月、後金の第2代君主になっていたホンタイジが新たに皇帝に即位した。

【歴史人物紹介:ホンタイジ】 ヌルハチの第8子で、清の第2代皇帝(太宗)。優れた軍事手腕に加えて、父に勝るとも劣らない高い政治的知性を持っていた。内政を整備して国家の基礎を盤石にするとともに、モンゴルや朝鮮半島を完全に服従させて中国本土支配への足場を築いた。

ホンタイジは後金という国号を、大国にふさわしい「清(しん)」に改めた。同時に、朝鮮王朝に対してこれまでの「兄弟」という対等に近い関係から、明確に「君臣(主君と家臣)」の関係を結んで朝貢を行うよう強硬に要求してきた。

清の国力と軍事力は日を追うごとに強大になる一方で、明の衰退と内部崩壊は誰の目にも甚だしかった。それでも、仁祖は現実を直視できず、清との外交をうまく立ち回れずに強硬姿勢のまま要求を拒絶し続けた。

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 絶望の籠城と三田渡の屈辱

1636年12月、度重なる警告を無視し、約束を守らぬ朝鮮王朝に激怒した清の皇帝ホンタイジは、自ら12万という桁外れの大軍を率いて、真冬の凍てつく朝鮮半島へ再び攻めてきた。

仁祖はまたもや江華島への逃亡を図るが、清軍の猛烈な進撃と機動力によって道を塞がれ、やむなく漢陽の南側にある南漢(ナマン)山城に避難して籠城した。

しかし、圧倒的な清軍に完全に包囲され、極寒の雪山のなかで食糧も尽き、頼みの援軍も来ず、ついに抵抗できなくなった。

約45日間の絶望的な籠城の末、仁祖は青き衣を着て城を出て、漢江(ハンガン)のほとりの三田渡(サムジョンド)へと連行された。そこで彼は、高く築かれた壇上に座る清の皇帝ホンタイジの前で、冷たい地面に額を何度も打ち付ける「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」を行い、土下座して謝罪するというかつてない屈辱を味わったのである。

【キーワード解説:三跪九叩頭の礼】 清の皇帝に対する最上級の服従儀礼。三度跪(ひざまず)き、その度に三度ずつ地面に激しく額を打ち付ける(計九回)。一国の王である仁祖がこれを行ったことは、朝鮮王朝の歴史において最大の屈辱とされており、後世まで大きなトラウマとなった。

歴史的に、この凄惨な出来事は「丙子胡乱」と呼ばれる。以後、朝鮮王朝は長年仕えた明との関係を完全に断ち切り、野蛮と蔑んでいた清に対して臣下の礼を取らざるをえなくなった。

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 明の滅亡と清の大帝国形成

朝鮮王朝を完全に屈服させて背後の憂いを断ち切った清は、いよいよ中国大陸への本格的な進出を開始する。

1644年には李自成(りじせい)が率いる農民反乱によってついに明も首都・北京を落とされて滅亡した。清軍は巨大な防衛線である万里の長城(山海関)を越えて北京に入城し、中国大陸の新たな覇者となった。

以後、清は広大な領土と多様な民族を強固な体制で統治する大帝国を築き上げた。そして、3世紀近くにわたって中国全土を支配し、近代化の荒波に飲まれる1912年の辛亥革命で滅亡するまで、東アジアの歴史の頂点に君臨し続けたのである。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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康(カン) 煕奉(ヒボン)

韓国の歴史・文化・韓流や韓国ドラマに関する著作が多数。『知れば知るほど面白い 朝鮮王朝の歴史と人物』などの歴史シリーズはベストセラーになりました。他の主な著書は『悪女たちの朝鮮王朝』『1冊でつかむ韓国二千年の歴史と人物』『朝鮮王朝「背徳の王宮」』『韓国ドラマ!愛と知性の10大男優』『韓国ドラマ!推しが見つかる究極100本』『韓流スターと兵役』『韓国ドラマ究極ベスト選 史上最高の韓流傑作は何か』など。

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