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タグ:歴史
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日韓の二千年の歴史11/百済寺跡と鬼室神社
660年に百済が滅んだあと、多くの難民が日本に渡ってきた。百済では最後の国王であった義慈王(ウィジャワン)の直系子孫は絶えたが、日本には義慈王の息子の勇がいた。この勇は、663年の白村江の戦いに敗れた… -
チョン・イルが『ヘチ』で演じている英祖(ヨンジョ)とは誰なのか
SBSの時代劇『ヘチ』では、主役のチョン・イルが若き日の英祖(ヨンジョ)を演じている。ドラマは、低い身分の血を受け継いだ「歓迎されない王子」が朝鮮王朝の政治を改革するまでを描いているのだが、果たして英… -
日韓の二千年の歴史10/白村江の戦い
660年、百済が新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた。都の扶余(プヨ)は7日間燃え続けた。百済の王家も崩壊した。ただし、復興を信じて局地的に戦ったのが鬼室福信(キシルポクシン)である。百済最後の国王であ… -
日韓の二千年の歴史9/京都と秦氏
古代の渡来人の集団の中でも特に有力だった秦氏(はたうじ)。この一族が日本に来たのは、4世紀から5世紀の頃と推定される。以後、秦氏は渡来系として急速に勢力を拡大。彼らは、養蚕機織や農業灌漑の技術を持って… -
中宗(チュンジョン)は結局は「代理の王」だったのか
燕山君(ヨンサングン)がクーデターで1506年に廃位となり、代わって異母弟の中宗(チュンジン)が11代王になった。彼は急に即位したが、それまで国王になるための帝王学を学んでいなかった。何の準備もなく王… -
日韓の二千年の歴史8/高句麗と日本
中国大陸で589年に隋が統一を果たすと、高句麗(コグリョ)は身が凍るほどの脅威を感じた。それまで高句麗は日本と関係を保っていなかった。しかし、隋の攻撃を受け始めると、「西から侵攻を受けるなら、東の国と… -
日韓の二千年の歴史7/浅草寺の縁起
川の中から出てきた仏像 東京の浅草寺の本尊は観世音菩薩だが、隅田川から引き上げられたという縁起(由来)がある。 要点は以下の通りだ。 その昔、隅田川で檜前(ひのくま)浜成(は… -
日韓の二千年の歴史6/善光寺の絶対秘仏
「お戒壇めぐり」 飛鳥寺に今も残る大仏が日本で最古の仏像の1つとされているが、他にも「最古では?」と目される仏像がある。 それが善光寺の本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」。ただし、… -
文定王后(ムンジョンワンフ)とはどんな悪女だったのか
文定(ムンジョン)王后は11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の王妃である。中宗の二番目の王妃が産んだ長男が、後に12代王になる仁宗(インジョン)だ。しかし、その王妃は産後すぐに亡くなってしまう。そこ… -
日韓の二千年の歴史5/蘇我氏の天下
推古天皇の即位 物部氏が滅び、蘇我馬子(そがのうまこ)には、もう誰も逆らえなくなった。 たとえ、天皇でさえも……。 ただし、用明天皇の後を継いだ崇峻天皇は少なからず蘇我馬子に…