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カテゴリー:日韓の二千年の歴史
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日韓の二千年の歴史9/京都と秦氏
古代の渡来人の集団の中でも特に有力だった秦氏(はたうじ)。この一族が日本に来たのは、4世紀から5世紀の頃と推定される。以後、秦氏は渡来系として急速に勢力を拡大。彼らは、養蚕機織や農業灌漑の技術を持って… -
日韓の二千年の歴史8/高句麗と日本
中国大陸で589年に隋が統一を果たすと、高句麗(コグリョ)は身が凍るほどの脅威を感じた。それまで高句麗は日本と関係を保っていなかった。しかし、隋の攻撃を受け始めると、「西から侵攻を受けるなら、東の国と… -
日韓の二千年の歴史7/浅草寺の縁起
川の中から出てきた仏像 東京の浅草寺の本尊は観世音菩薩だが、隅田川から引き上げられたという縁起(由来)がある。 要点は以下の通りだ。 その昔、隅田川で檜前(ひのくま)浜成(は… -
日韓の二千年の歴史6/善光寺の絶対秘仏
「お戒壇めぐり」 飛鳥寺に今も残る大仏が日本で最古の仏像の1つとされているが、他にも「最古では?」と目される仏像がある。 それが善光寺の本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」。ただし、… -
日韓の二千年の歴史5/蘇我氏の天下
推古天皇の即位 物部氏が滅び、蘇我馬子(そがのうまこ)には、もう誰も逆らえなくなった。 たとえ、天皇でさえも……。 ただし、用明天皇の後を継いだ崇峻天皇は少なからず蘇我馬子に… -
日韓の二千年の歴史4/蘇我氏と物部氏
捨てられた仏像 百済(ペクチェ)の聖王(ソンワン)の使者が来日して、欽明天皇に釈迦仏の金銅像と経論などを贈呈した。 仏教の受容をめぐって、政権を支える2大勢力が対立した。 欽… -
日韓の二千年の歴史3/仏教伝来
475年が転換期 古代の朝鮮半島で、高句麗(コグリョ)の南下政策が過激になったのが5世紀の後半だった。 475年、高句麗軍の兵3万は百済(ペクチェ)の都であった慰礼城(ウィレソン/現在のソウル… -
日韓の二千年の歴史2/広開土王の時代
七支刀 『日本書紀』の記述によると、応神天皇の時代に百済(ペクチェ)から来日したのが王仁(わに)と言われている。日本に「論語」と「千字文」を持ち込んだそうで、これをもって、漢字と… -
日韓の二千年の歴史1/海を渡る人々
古代人の往来 古代の日本列島……人の往来はどうなっていたのか。 東からは誰も来ない。地球で一番大きな海が人を寄せつけなかった。 来るのは、北と南と西からだ。 特に、西から来る人が圧倒的に多…