父親である李成桂(イ・ソンゲ/初代王・太祖【テジョ】)の時代に起こった後継者をめぐる骨肉の争い。それを勝ち抜いて3代王となった太宗(テジョン)。彼は、在位中にどのような政策を行なったのか……。
王の座を勝ち取った芳遠
朝鮮王朝初代王・李成桂の五男として生まれた芳遠(バンウォン)。武力に優れていた芳遠は、李成桂の政敵を次々と排除していった。芳遠自身も「王の後継者には自分が選ばれるに違いない」と思っていた。しかし、李成桂が使命したのは八男の芳碩(バンソク)だった。芳遠は、その決定に怒り、1398年に「第一次王子の乱」を起こして、異母弟と側近の鄭道伝(チョン・ドジョン)を殺害した。
しかし、芳遠はすぐには王にならなかった。後を継いだのは、二男の芳果(バングァ)だが、1400年に四男の芳幹(バンガン)が王位を狙ったことで、「第二次王子の乱」が起こった。その2つの骨肉の争いに勝利した芳遠は、ついに3代王・太宗として即位したのであるが、その裏には、妻である元敬(ウォンギョン)王后の支えがあった。
太宗は、1382年に結婚して元敬(ウォンギョン)王后を妻として迎えた。元敬王后は、政敵の急襲をいち早く知らせるなど、夫である太宗をしっかりと支えていた。
とても頼りになる妻だった元敬王后だが、1400年に3代王として即位した夫に冷遇され、太宗の策によって実家が落ちぶれてしまったのである。太宗がそうした理由は、外戚を排除して王朝を長く存続させるためだった。しかし、その理由を知らない元敬王后は、怒りを露わにした。
その結果、太宗と元敬王后の夫婦仲は完全に冷え切ってしまった。確かに、元敬王后の支えによって、太宗は王になることができた。ただ、太宗からしてみれば、妻の実家も危険な勢力の1つだったのである。その標的となったのは元敬王后の兄弟だ。
1410年、元敬王后の2人の兄と2人の弟が処刑されてしまった。それを知った彼女は「王妃にならなければ……」と悲しみ、夫を激しく恨んだ。その後、太宗の側近たちから元敬王后の廃妃を望む声があがった。「これまで王妃に対し冷酷な態度を取ってきた太宗のことだから、確実に廃妃にするに違いない」と周りの人々は思っていた。
しかし、王の答えは「元敬王后を廃妃にしない」と周りの予想に反したものだったのである。だが、たとえ廃妃にされなかったとしても、実家を没落させられたことに対する元敬王后の傷が癒えるわけでもない。そんな寂しい晩年を過ごしていた彼女に、さらなる辛い出来事が起きる。それは、四男の誠寧(ソンニョン)が14歳という若さで世を去ってしまったのだ。元敬王后の悲しみは尋常じゃなかった。
そんな彼女の唯一の救いは、1418年に三男の忠寧(チュンニョン)が4代王・世宗(セジョン)として即位したことである。それを見届けたうえで、元敬王后は1420年に55歳で世を去った。
太宗が在位中に特徴的な政策を行なっている。それが、「崇儒排仏」だ。文字通り、儒教を崇拝して仏教を排除する政策である。これを行なった理由は2つある。1つは、仏教寺院が政治に介入し過ぎたことにより、国政を乱された高麗のようになりたくなかったからで、もう1つは「人間の序列を認める儒教のほうが、厳しい身分制度に合っている」と太宗が判断していたからだ。現在の韓国で、仏教寺院が市中ではなく山の中腹にあるのは、このときに追われた名残である。
太宗は、王になる前と王になった直後に、大きな問題を起こしている。その反面、朝鮮王朝の基礎作りに邁進するなどの功績を残している。その後、太宗は三男の忠寧に王位を譲り、後見人として王権の行く末を見守って1422年に世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)
李芳遠(イ・バンウォン)が即位して太宗(テジョン)になった!