太宗(李芳遠)の妻だった元敬王后はどんな王妃だったのか

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1365年に高麗王朝の名門の家に生まれた元敬(ウォンギョン)王后。彼女は、1382年に李成桂(イ・ソンゲ)の五男である李芳遠(イ・バンウォン)と結婚するが、それは朝鮮王朝建国のために有力な後援者を探していた李成桂が進めた政略結婚だった。2人の夫婦仲は良く、力を合わせて朝鮮王朝の創設に尽力した。その甲斐あって1392年に朝鮮王朝が建国された。以降、芳遠は王の後継者となるために血のにじむような努力を重ねていく。




元敬王后の人生

夫を王にしようと惜しまず協力した元敬王后。彼女は、政敵の急襲を芳遠に知らせたり、用意しておいた武器を渡してクーデターを成功に導いたりした。元敬王后ほど、夫を王にするために大きな働きをした王妃は他にいない。「内助の功」で言えば元敬王后が一番の功労者だった。
1400年に芳遠は3代王・太宗(テジョン)となり、元敬王后は王妃となった。しかし、2人の夫婦仲は、それまでの仲の良さが嘘のように冷え切ってしまう。このとき、太宗には12人の側室がいた。彼は側室のもとにばかり通うようになり、元敬王后を敬遠し始めたのである。そのことに耐えられなかった元敬王后は太宗を批判した。
太宗が元敬王后を冷遇した理由は、「王朝を存続させるためには、外戚の力を弱める必要がある」と思っていたからだ。その対象になったのが元敬王后の実家である。太宗は、元敬王后の兄弟たちが大出世を果たしたことを脅威に感じていた。そのため、彼は1410年に元敬王后の兄弟たちを処刑して、元敬王后の実家を没落させてしまった。
そのような悲劇を受けて、立ち直れないほど落ち込んだ元敬王后は、太宗に激しい憎しみを抱いた。




太宗の側近たちは元敬王后の廃妃を主張したが、彼は息子を4人も産んでくれたことや王になる過程で自分を支えてくれたことを高く評価していた。
元敬王后が産んだ息子は、長男の譲寧(ヤンニョン)大君、二男の孝寧(ヒョニョン)大君、三男の忠寧(チュンニョン)大君、四男の誠寧(ソンニョン)大君だ。
朝鮮王朝には「王の後継者は長男がなる」という決まりがあった。そのため、長男の譲寧が王の後継者に指名されるが、彼は頻繁に宮殿を抜け出すなどの行為を繰り返して後継者の座を剥奪されてしまう。さらに、二男の孝寧も僧侶となることで後継者の座を辞退した。それにより、幼いころからずっと本ばかり読んでいた聡明な三男の忠寧が王の後継者となった。
太宗は、王の後継者の母親である元敬王后を廃妃にしてしまうと、朝鮮王朝に多大な影響が及ぶと思って元敬王后を廃妃にしなかったのである。
こうして廃妃をまぬがれた彼女をさらなる悲しみが襲う。四男の誠寧が14歳という若さで世を去ってしまったのである。彼女は息子の死を深く悲しんだ。
元敬王后にとって唯一の救いは、三男の忠寧が1418年に4代王・世宗(セジョン)として即位したことだ。彼女は、それを喜んだが2年後の1420年に亡くなった。享年は55歳であった。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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