チャングムはどんな医女だったのか

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朝鮮王朝時代、科挙の中にある“医科”に合格した人物が医師になった。その中でも優秀な人材が王の主治医になったが、それは大変な名誉と責任があった。一方、医女は医師とはなりたちが違った。




医女が生まれた理由

医女が生まれた背景には、朝鮮王朝が国教とする儒教の教えが関連していた。儒教では人に肌を見せるのは、大変な侮辱になったため、女性が男性医師の診察を拒否する場合が多かったのだ。
その結果、同性の医師の必要性が生まれ、3代王・太宗(テジョン)の時代に医女を選抜するようになった。しかし、良家に生まれた女性が、他人の肌を見るような仕事に就きたがる訳がなかった。そこで、医女は身分の低い奴婢の中から選出することになった。
そのため、医女は必要以上に低く見られ、10代王・燕山君(ヨンサングン)の時代には、宴席で酌を強要されることもあった。
こうした風習は、11代王・中宗(チュンジョン)の時代に禁止された。
一方、チャングム(長今)〔生没年不詳〕は中宗の時代に活躍した医女である。彼女は、朝鮮王朝の歴史を公的に記録した歴史書「朝鮮王朝実録」にも登場していることから実在が確認されている。




チャングムが初めて「朝鮮王朝実録」に登場したのは、1515年の3月だ。このときにチャングムは問題を起こしてしまう。
中宗の正室の章敬(チャンギョン)王后が子供(後の12代王・仁宗〔インジョン〕)を産んで、すぐに亡くなってしまったのだ。ここでチャングムは、産後に王妃の衣装を替えることをしなかった。王族が亡くなれば、その主治医が罪を問われることになる。つまりチャングムの犯した失態の罪も重かったのだ。
しかし、その後もチャングムは医女として働き続けた。これは、仁宗の出産を祝っての恩赦を貰ったものと推察できる。
以降もチャングムは「朝鮮王朝実録」に幾度か名前が載るが、そのたびに褒美をもらっていることからも、いかに優秀だったかがわかる。
長今は医女として、王の主治医の役割を任されていた。中宗は、最期まで自分の健康状態をチャングムに管理させるほど信頼していたのだ。

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