朝鮮王朝で初めて垂簾聴政(幼い王に代わり後見人が政治を仕切ること)を行なったのは、7代王・世祖(セジョ)の妻だった貞熹(チョンヒ)王后(1418年~1483年)である。
韓明澮との取り引き
1469年、8代王・睿宗(イェジョン)が、後継ぎを指名することなく亡くなると、宮中では大きな混乱が起こった。
それは睿宗の息子・斉安大君(チェアンデグン)がまだ5歳と幼くまともな政治を行なえないからだ。奸臣たちはこの機会に、自身の権力を確固たるものにしようと画策し、周囲の出方をうかがっていた。
もっとも早く行動を起こしたのは睿宗の母であった貞熹王后だ。彼女は睿宗の兄で早世した懿敬(ウィギョン)の息子たち(月山君〔ウォルサングン〕と者山君〔チャサングン〕)を次の王の候補にしたかった。そこで、宮中で高い権力を持つ韓明澮(ハン・ミョンフェ)に接触して、自分を支持するように取り引きをもちかけた。
韓明澮は自分の利益にもなることだったので、快く応じた。
韓明澮を仲間に引き入れた貞熹王后に怖いものは何もなかった。彼女はさっそく宮中の臣下たちを一堂に集めると、次の王を発表した。
貞熹王后が次の王に指名したのは、自分の孫の中でも兄である月山君ではなく弟の者山君のほうだった。彼女は、「斉安大君は幼く、月山君はからだが弱いため王になるべきではない」と詭弁(きべん)を弄(ろう)した。
しかし、本当の理由は違う。彼女は王が成長するまでの間、王の後継人として権力を振るいたかったのだ。者山君なら青年だった月山君よりも長く垂簾聴政を行なえると思ったのだ。1469年、者山君は9代王・成宗(ソンジョン)として即位した。
貞熹王后の思惑どおり、成宗が成人するまでの7年間、彼女は垂簾聴政を続け、宮中で好き勝手に振る舞った。
その間、成宗は政治に一切関わることがなく、日夜勉強を続けた。これが後の名君の下地になった。
貞熹王后は用意周到だった。王位から外された斉安大君と月山君が復讐しないように、彼らに高い身分を与えて手厚くもてなした。このあたりの配慮を見ても、貞熹王后は人間の本質をよく見抜いた女性だった。