済州島の旅が続いていく7「オランダへの帰還」

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済州島の大静に漂着したハメルが馬に乗って済州府に移る間に、彼は島の暮らしぶりをつぶさに見ていたことだろう。そのとき目についたのは、おそらく貧しい人々であったに違いない。




済州島の風土

ハメルが本土に移りソウルや全羅道に暮らしているとき、済州島の印象を周囲の人に語って聞かせると、その反応は島を見下す差別的なものばかりだった。それがハメルの言うところの「住んでいる人はとても貧しく賤しく、本土の人間からはほとんど尊敬されていません」という言葉につながっている。
ときは17世紀の半ばである。馬の毛で作った帽子をかぶれる人はまだいいほうであって、度重なる飢饉で島民の暮らしは疲弊していたことだろう。ただ、賤しくはなかったと思うのだが……。
当時のオランダ人は済州島のことを「ケルパールツ」と呼んでいた。このケルパールツというのは新式の小型船のことで、その型の船が長崎に向かっているときにオランダ人が初めて済州島を「発見」したことで、済州島はそう呼ばれるようになったのである。
そのことは、当時のヨーロッパがいかに東アジアの地理に疎かったかということをうかがわせる。仮にも周囲250キロの島の名を船の名で代用させるのだから。




そうした蒙昧の中で、ハメルは精一杯に済州島の風土をその目に焼き付けたのかもしれない。
オランダ側の要請を受けて日本は朝鮮王朝に対して、まだ残留していた8名のデ・スペルウェール号の乗組員の引き渡しを要請した。その中の1名は朝鮮半島での永住を希望したので、残りの7名が朝鮮半島を出国することを許され、やがて本国のオランダに戻ることができた。
最初に台湾を出航したときにデ・スペルウェール号に乗っていた64名の中で、最終的に母国に帰ることができたのは15名であった。
数は少ないが、彼らが生存することができたのは、魔法でもなんでもなく、やはり、船が難破したそこに済州島があったおかげである。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

済州島の旅が続いていく1「ここは山房山」

済州島の旅が続いていく2「ハメルという人」

済州島の旅が続いていく6「済州島の印象」

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