済州島の旅が続いていく6「済州島の印象」

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ハメルたちは翌年の6月にソウルへ移送された。その後の運命は、朴延が想像した以上に苛酷だった。全羅道(チョルラド)を守護する兵士として徴用されたが、満足な待遇を得られずに病没する者が相次いだ。完全な邪魔者扱いだったわけだ。




住んでいる人は?

自尊心のうえでは耐えられない屈辱だったが、次第に忘れられた存在になったことがかえって脱走には好都合になった。
1666年、生存者の中でハメルを初めとする8人が秘かに船を用意して全羅道から脱出することに成功。4日間の航行の末に五島列島のある島に流れついた。そのまま長崎に移送され、まずは長崎奉行所にとどめ置かれた。
そのとき、長崎奉行とハメルたちとの間で交わされた問答の記録が残っている。
それによると、長崎奉行の「難破した島の様子はどうか」という質問に対し、ハメルたちは「人口が多く豊かな島です」と答えている。
また、「島での処遇はいかがであったか」という問いには、「牢屋に入れられましたが丁寧な扱いを受け、飲み物と食べ物をもらいました」と返答している。
ハメルたちは漂着から13年経ったあとでも、済州島での暮らしに不満をもらしていない。李元鎮の後任の牧使には冷遇されて脱走を企てる者もいたのに、李元鎮在任中の好待遇には満足していたのであろう。




ただし、ハメルは「朝鮮幽囚記」の中では次のようにも書いている。
「島には人口が多くて、食物もよく産出されます。馬や牛も多くいます。ただし、住んでいる人はとても貧しくて賤しく、本土の人間からほとんど尊敬されていません。また、高い山がありますが、その他は低い不毛の丘で、その間の谷に人々は稲を植えています」

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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