若者たちの迷いと成長を描いたドラマ『二十五、二十一』は人々を感動の渦に巻き込んで幕を閉じた。ナム・ジュヒョクとキム・テリを筆頭に素晴らしい演者が顔を揃え、優れた制作陣と共にとてつもない大傑作を誕生させた。
多くの感動をくれたドラマ
素晴らし作品に出会えた。最終回までがこれほど楽しみな作品は久しぶりだった。自分の青春時代を思い出してせつなくなった視聴者もいるかもしれない。よい作品ほど自分の中の何かと対話したくなるものだ。
『二十五、二十一』は作品の出来があまりに素晴らしいゆえに、ファンの間では鋭い考察合戦まで繰り広げられるようになった。ドラマのエンディングが近づくにつれ、それぞれの中で希望的観測がより一層大きいものになっていった。
個人的に望んでいたのは主人公たちの恋愛成就や生死に関わることよりも、この素敵なストーリーをファンタジックに終わらせないでほしいということだった。
リアルな時代背景を描いているのだからそんなことは絶対にあり得ないとは思いながらも、これまで幾つかの韓国ドラマでとんでもないどんでん返しを見てきたせいか、この作品においても1%の不安がぬぐえなかった。
主人公の夢の中の出来事だったとか、主人公が書いた小説の中の話だったとか…という具合である。それさえなければどんな結末になろうとも受け入れる覚悟はできていた。
結果はとても満足のいく結末だった。ドラマチックかどうかは別にして誰しもが経験するような若かりし日の恋愛と別れ。どんなに愛し合っていても結ばれることの叶わない恋はある。一緒にいることだけが愛ではないと言い切るのは綺麗ごとに過ぎないのかもしれないが、一緒にいないからこそ輝いていた頃が永遠に心に残りうるのではないだろうか。
主人公の2人は一緒にいることよりもお互いの人生を応援することを選択した。救いなのは映画『マディソン郡の橋』のように永遠に会えない雰囲気を感じさせなかったことだ。祖母の「ペク・イジン(ナム・ジュヒョク)に会った」という発言やヒド(キム・テリ)が海に行ったことを特別な記憶として覚えていないなどということから、現在の二人の関係性は決して悪いものではなく、むしろすべての物を超越した関係性になっているのではないかとさえ思えるからだ。そう思えば本作は決してサッドエンディングではなく、むしろハッピーエンディングなのだ。
『二十五、二十一』を見た後、ある韓国ドラマを思い出した。2013年に放送された『おバカちゃん注意報』という作品である。そのドラマの中にこんなセリフがあった。
「愛って誰も気付かないところに気付いてあげることなのよ」
『二十五、二十一』の主人公たちもお互いにしか気付かないところに気付き、それを認め、応援した。それは恋愛だけでなく、ヒドとユリム(ボナ)の友情においても共通しているのではないだろうか。
誰も気付かないところに気付いていたといえば『二十五、二十一』の熱烈なファンの愛もそうだ。作り手の想像を遥かに越えた鋭い考察合戦が繰り広げられたのは本作への熱烈な愛と応援にほかならない。これほどまでに考察合戦が大きくなろうとは制作陣も予想していなかったという。
作品は視聴者が見て初めて完成する。『二十五、二十一』は多くのファンと共に最終回を迎え、稀に見る大傑作として韓国ドラマ史上に残る名作となった。『二十五、二十一』は本当に多くの感動をくれた。この作品に関わってくれた全ての人々に感謝して、これからも本作品が多くの人に愛されることを願ってやまない。
文=朋 道佳(とも みちか)