康熙奉(カン・ヒボン)の新大久保ときめき物語2「コリアタウンの誕生秘話」

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東京・新大久保の界隈に集まってくる韓流ファンに「なぜ新大久保がこんなに有名なコリアタウンになったと思いますか」と尋ねても、ほとんどの人が「知らない」と答えるに違いない。実は、新大久保がコリアタウンになるには、明確な理由があったのである。

かつて韓国系の教会があった場所に今は「ドン・キホーテ」がある




コリアタウンを作った人

現在、職安通りのランドマークになっているのがディスカウントストアの「ドン・キホーテ」である。
この「ドン・キホーテ」がある位置には、かつて何があったのだろうか。
実は、1980年代には韓国系の教会があった。
それ以前、職安通りには韓国食堂もほとんどなかった。しかし、教会ができたことで韓国にルーツを持つ人たちが職安通りに顔を見せるようになり、それにともなって韓国料理を出す食堂がポツポツとできるようになった。
すると、職安通りは歌舞伎町からも近いので、夜の歌舞伎町で働いていた女性たちも職安通りの韓国食堂を利用し始めた。
また、韓国から留学に来た人も新宿より物価が安い新大久保の界隈に住むようになり、職安通りが徐々にコリアタウンになるきざしが出てきた。
その中で、決定的な役割を果たしたのが金根熙(キム・グンヒ)さんだった。




「新大久保のコリアタウンを作った人」と言われていた金根熙さんに会って話を聞いたのは2009年1月のことだ。その話は本当に面白かったが、同時にコリアタウンが誕生する経緯も詳しく知ることができた。
もともと研究者として日本にやってきた金根熙さんはやがてビジネスで日韓交流に尽力していった。そして、韓国の生活文化を日本に紹介したいという思いを強く持ち、作った会社を「韓国広場」と名付けた。この言葉には「韓国生活文化の広場」になってほしいという気持ちが込められていた。
満を持して、金根熙さんは1990年代の半ばから「韓国広場」という韓国のスーパーを営むようになった。
「ソウルそのものを日本に持ってくる」
その発想から生まれたのが「韓国広場」であり、この店は韓国生活文化の象徴として多くの人たちを呼び込む原動力になっていった。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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