人質から帰った昭顕世子を仁祖はどう迎えた?

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1636年12月、強大な清は大軍で朝鮮王朝を攻めた。朝鮮王朝はあえなく降伏。16代王の仁祖(インジョ)は、清の皇帝の前で頭を地面にこすりつけて謝罪した。ここまで王が屈辱を受けたのは、建国以来一度もなかった。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより




西洋の文化にかぶれた昭顕

降伏した朝鮮王朝は、莫大な賠償金を課されたうえに、仁祖の息子3人が人質として清に連れていかれた。その事態を仁祖はひどく悲しんだ。
清に屈伏した責任はすべて仁祖に向けられたわけで、庶民たちはそんな情けない王に怒りを露(あら)わにした。
一方、清の人質になった仁祖の息子3人の長男が昭顕(ソヒョン)だった。
彼は長かった人質生活を終えて1645年に戻ってきた。しかし、昭顕は清で生活している間に、すっかり西洋の文化の魅力に取りつかれてしまった。仁祖への帰国挨拶のときも、西洋の文化のすばらしさを伝え、朝鮮王朝にも取り入れることを提案した。
そんな息子の姿を見た仁祖は憤慨し、近くにあった硯(すずり)を投げつけた。




仁祖は、西洋の文化にかぶれてしまった昭顕より、彼の弟の鳳林(ポンニム)を次の王にしようと考え始めた。ところが、昭顕は帰国してから2カ月後に急死してしまう。その死因に関しては分からないことが多いが、仁祖が息子を毒殺した可能性がある。
清への屈辱を晴らすことを考えていた仁祖が、鳳林を次の王にしたいと考えた理由は、実際に清の人質となった鳳林が、自分と同じように清を憎み続けていたからだろう。
(ページ2に続く)

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