皇民化政策
独立宣言書は、京城(ソウル)のパゴダ公園で、独立運動家たちによって起草されました。
「我らはここに我が朝鮮国の独立と朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
こうした言葉による独立宣言書が発表された直後から、民衆が「独立万歳」と叫びながら行進しました。
この独立運動は事前にしっかり準備されたものであり、他の主要都市でも同時に示威行動が起こりました。そして、学生・市民・農民たちが結束した抵抗運動は全土に波及していったのです。
これが「三・一独立運動」です。
日本の官憲は強圧的に独立運動を取り締まり、多くの死者が出ました。
「軍事力だけでは民衆の反対運動を抑えることはできない」
そう痛感した朝鮮総督府は、その後は強圧的な武断統治を多少は改めざるをえなくなったのです。
言論や集会の制限もややゆるめられ、民族資本の経済活動が部分的に許容される場合もありました。
一方、思想的に朝鮮半島の人々を日本に同化させる政策も進められました。
その一環として1925年10月15日に竣工したのが、京城の朝鮮神宮でした。
祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と明治天皇でした。
この神宮が造営されたのは、朝鮮半島で天皇崇拝を浸透させるためでした。朝鮮半島の各地にはさらに60余の神社が建てられました。
こうして、朝鮮半島の皇民化政策が積極的に進められていったのです。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)