トンイ(淑嬪・崔氏)の人生がよくわかるエピソード集!(歴史人物編)

このエントリーをはてなブックマークに追加

粛宗と淑嬪・崔氏の関係は?

◆1693年に淑嬪・崔氏は粛宗の息子を産んだ。しかし、わずか2カ月で早世してしまった。
◆1694年4月、「張禧嬪の兄であった張希載(チャン・ヒジェ)が淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」という告発が粛宗のもとに寄せられた。王宮は騒然となり、粛宗は重大な決断をした。それは、張希載を済州島(チェジュド)に流罪にしたうえで張禧嬪を王妃から側室に降格させる、ということだった。王妃の座が空いたので、仁顕王后が復位することになった。西人派が巻き返すことに成功したのだ。
◆淑嬪・崔氏は、1694年の秋に再び粛宗の息子を産んでいる。後の21代王・英祖(ヨンジョ)である。
◆1701年8月、仁顕王后が亡くなった。その40日後、淑嬪・崔氏が粛宗に対して「張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していた」と告発した。それによって、張禧嬪は死罪となった。




◆仁顕王后が亡くなって王妃の座が空いたが、粛宗は淑嬪・崔氏を昇格させないで、新たに仁元(イヌォン)王后を正室に迎えた。
その一方で、淑嬪・崔氏は王宮の外に出されてしまった。なぜ、粛宗は急に淑嬪・崔氏に冷たくなったのか。
ドラマ『トンイ』では描かれていない複雑な関係が粛宗と淑嬪・崔氏の間にあったに違いない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

発掘!トンイの正体をめぐって3つの説が噂されていた

張禧嬪(チャン・ヒビン)の最期!『トンイ』と史実はこんなに違う

「張禧嬪(チャン・ヒビン)よりトンイが悪女!」と言える3つの根拠

トンイはなぜ王妃になれなかったのか

史実の『トンイ毒殺未遂事件』はどのように起こったのか

固定ページ:
1

2

必読!「ヒボン式かんたんハングル」

「韓流ライフ」というジャンルの中に、「ヒボン式かんたんハングル」というコーナーがあります。ここには、日本語と韓国語の似ている部分を覚えながら韓国語をわかりやすくマスターしていく記事がたくさん掲載されています。日本語と韓国語には共通点が多いので、それを生かして韓国語の習得をめざすほうが有利なのです。ぜひお読みください。

ページ上部へ戻る