日韓の二千年の歴史28/植民地統治の前期

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3・1独立運動

「われらはここにわが朝鮮の独立国たることと朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
この言葉で始まる独立宣言書が発表された直後から、民衆が「独立万歳」と叫びながらデモを行ない、その示威行動は学生・市民・農民たちによって全土に波及していった。これが「3・1独立運動」である。
しかし、日本の官憲は強圧的にデモを取り締まり、7600人以上の死者が出た。この事態に日本は大きな衝撃を受けた。
「軍事力だけでは朝鮮民衆の反対運動を抑えることはできない」
そう痛感した朝鮮総督府は、以後は強圧的な武断統治を改めざるをえなくなった。採用された方法は「懐柔策」と呼べるものだった。言論や集会の抑圧もややゆるめられ、民族資本の経済活動が許容される場合もあった。
しかし、朝鮮民衆の受難は続く。




1923年9月1日に関東大震災が起こったとき、「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒を入れた」「朝鮮人が日本女性を襲った」という流言飛語が広まり、結果として6000人以上の朝鮮人が虐殺されたと言われている。
土地を奪われて日本に渡った末の悲劇であった。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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