朝鮮王朝三大悪女で一番悪女でないのが張禧嬪(チャン・ヒビン)!(再読版)

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朝鮮王朝三大悪女と呼ばれているのは、燕山君(ヨンサングン)の側室だった張緑水(チャン・ノクス)、巨悪の文定(ムンジョン)王后の手先だった鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、そして、張禧嬪(チャン・ヒビン)である。果たして、張禧嬪は本当に悪女だったのだろうか。




側室から王妃になった!

19代王・粛宗(スクチョン)の側室だった張禧嬪が王子を産んだのは1688年のことだった。
王子は粛宗にとって長男だった。
しかし、世子(セジャ/王の正式な後継者)は、正室から生まれた男子が優先される。病弱だったとはいえ、正室の仁顕(イニョン)王后はまだ若かった。
彼女がもし粛宗の息子を産むようなことがあれば、張禧嬪が産んだ王子は世子どころか警戒されてどんな身に落とされるかわからなかった。
張禧嬪の狙いはただ一つ……なにがなんでも正室になることだった。そのためにも、仁顕王后を廃妃(ペビ)にしなければならなかった。
幸い、息子が生まれてから粛宗は以前よりもっと張禧嬪を寵愛したが、王の心をつかんでいるという自信が彼女を増長させた。
当時の王朝は、西人派と南人派という二つの派閥が激しい権力闘争を繰り広げていた。所属をいえば、仁顕王后は西人派で張禧嬪は南人派だった。




張禧嬪にとっては、南人派が権力闘争で優勢になったことが幸いした。逆に、頼りの西人派が力を失って仁顕王后は難しい立場になった。しかも、すでに粛宗の心は仁顕王后にはなく、彼は強引に廃妃を決定した。寵愛する張禧嬪との間に生まれた王子を世子にするために我を押し通したのだ。
空いた王妃の座に張禧嬪はすぐにあがった。やはり、王の息子を産んだという実績は、とてつもなく大きい。張禧嬪は有頂天になるばかりだった。
しかし、仁顕王后が宮中から追い出された顛末(てんまつ)を風刺した小説「謝氏南征記」(サシナムジョンギ)が市中に出回ると、庶民は改めて仁顕王后に同情し、張禧嬪に批判の目を向けた。
(ページ2に続く)

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